「ディック傑作集〈4〉まだ人間じゃない」(フィリップ・K・ディック (訳)浅倉久志ほか)(ネタバレ注意!)

ディック傑作集シリーズの最終巻。後期作品を中心に、作者自薦・他薦の短編を集めたもの。

ディックの文章は淡々として渇いていて、おおよそ無意味なレトリックというものが存在しない簡潔なものである。訳者の腕前によってそう見えてしまう部分もあるのだろうが、誰が訳そうがディックの小説に通底する味気ないまでのストイシズムと冷徹さには変わりがないように思える。
「冷徹」、そう、ディックの小説は冷徹だ。「人間らしさ」「人間とはなにか」という、いくらでも「ヒューマニスティックに」書けそうな題材にその生涯を捧げながら、その結末において安易なセンチメンタリズムに逃避した事はほとんどない。

たとえ断片であっても、なにかしらの生き残りがあることを懸命に信じたがっていることは、一目瞭然だった。だが、亡霊にしがみつくのは、テラの人間の精神の特徴だった。それで彼らの敗戦の説明がつくかもしれない。彼らは単に、現実的でなかったのだ。
「この猫は」とミルト・ビスクルはいった。「火星のシノビネズミをとるのがうまくなるぞ」
「そうですね」とドウィンター先生は同意した。”電池がきれるまでの話だがな”ドウィンターも仔猫をなでてやった。
――――(「かけがえのない人造物」(訳)小川隆)

それがどんなに悲惨で悪臭漂うものであろうと、物事に対して「現実的な」向き合い方をしないミルト・ビスクルに未来はない(彼の場合は半ば幻想を強制されているわけだから、そういう意味では哀れを誘うのだが)。人間性の邪悪に正面から向き合い続けた結果、その苦痛は逆説的に「逃避」を生み、また「恐怖」を生む。

「こんばんは」かん高い、金属的な声が、きしるようにいった。
モリスは悲鳴をあげた。体を動かそうとしたが、折れた梁にしっかりと抑えつけられていた。それでも必死に絶叫しながら、這って逃げようとした、唾を吐き、泣きさけび、涙を流した。
「ファスラッドをお見せしたいんです」金属的な声はつづけた。「奥さんを呼んでいただけませんか?奥さんにもファスラッドをお見せしたいんです」
「あっちへ行け!」モリスは絶叫した。「あっちへ行けったら!」
「こんばんは」ファスラッドは、こわれたテープのようにしゃべりつづけた。
――――(「CM地獄」(訳)浅倉久志)

この凄惨な結末は、掲載当事読者の猛反発を食ったという。淡々とした文体、全てを語らない言葉がかえって読者の想像力を掻き立てて、この上なく恐ろしい描写。ハリウッド映画のような「幸福な」結末は、人間の実存と真摯に向き合うディックの小説には在り得ない*1。混沌とした世界をその厳格な表情を崩さぬまま、ディックは駆け抜けていくが、――

「いつかは、きっと見られるさ」だがそれはうそだとわかっていた。絶対にうそだ。はっきりと筋の通った理由はわからなくとも、口に出したときに、絶対にそれは真実だとわかることがあるが、それと同じだ。
彼らは駐車場を出て、公道へ乗り出した。
「いい気分だな」イアン・ベストが言った。「自由だってことは・・・・どうだい?」
―――――(「まだ人間じゃない」(訳)友枝康子)

―――しばしの休息の時、垣間見える作者の「人間的な」温もり、優しさが胸に響く。
上手く言えないが、こういった素直な感情の美しさこそ「人間的であると言う事は親切であると言う事だ」と言ったこの作者の書きたかったものなのではないか。

「最後の支配者」「まだ人間じゃない」など、作品をアレゴリーとして捉えれば、社会学・哲学両面からそれっぽい事はいくらでも書けそうだ(書く知識もないが)。だけど、僕はこれらの物語を読者が解釈によって歪に捻じ曲げる事が正しいとはあまり思えない。言葉一つ一つに込められた作者の思いを、ただそのままで「素直に」感じ取りたい。


ディック傑作集〈4〉まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫SF)

ディック傑作集〈4〉まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫SF)

*1:そういう意味でやはりスピルバーグの「マイノリティ・リポート」はディックものとしては邪道。娯楽映画としてはフツーに面白いんだけどね