「ブログって何だ?」論が一部で盛り上がっているのですが

正直なところ、あまり関心がない。


一連の議論の直接のきっかけは多分この本なんだと思うけど、栗原氏含め僕が好きなブロガーさんが沢山執筆しているらしいこの本を、何故だか僕は手に取る気が起きない訂正:多分近いうちに読みます(馬鹿)。その感情がどこから来るものなのか、上手い説明がないが、多分それは議論の主題を「ブログ」に限定している点にあるのだろうと思う。


めでたくPVが10000を越えた所でこんな事を言うのも何だけど、僕はこの人とかが批判的に論じている(事実誤認だったようです。訂正します)「ブログが○○を変える」(昔は「2ちゃんねるが○○を変える」だったアレね)という論理に全く関心が持てないのだ。批判しているのではなく、単純に何が言いたいのかよくわからんのである。
僕個人の感覚では、ブログは(あらかじめ(サーバーなど)情報配信に必要なものがあらかた用意されている分)普通のホームページより「気軽に使え」て「便利」なものだと思うし、だから自分でもこうして使っているのだが、それが既存のテキストサイト等と決定的な相違がある、というような過程に基づく議論には、拭いきれない違和感を感じてしまう。再三言うが批判しているのではない。何がどう違うのか、感覚的・直感的に理解できないのである。


これは僕が昔美術方面を齧った事がある経験から来ているのかも知れない(才能はまるで無かったが)。美術には常に「モチーフ」=自分の表現したいもの、があり、それはただの「物体」から自分の心の中にある「感情」までありとあらゆる種類のものがあるのだが、例えば油絵の筆、デッサンの2B鉛筆、ペン画のGペン、版画のメゾチントなんてものはそれを表現するための「手段」に過ぎないと感じていたし、今でもそう思っている。現代美術とかでその「手段」そのものについて論じ、表現している人がいるのは知っているが、はっきり言ってそういう人のやっていることには関心が持てない(嫌いではないけど)。ホームページとかに感じるのもそれと一緒の感覚である。サイトは自分の考えた事、感じた事を表現し、多くの人に伝えるための「ツール」に過ぎないと思うし、それがどんな種類の物であれ所詮道具に過ぎないという一点において、普通の「ホームページ」も「ブログ」も「2ちゃんねる」も、何ら差の無いものであるとしか認識できないのだ*1


もし現在あるブログやテキストサイトで、Flash「EPIC2014」に描かれたような、既存のメディアに対抗しうる言論体形が構成されつつあるとしても、それを「ブログ」といういかにも狭そうな領域だけに絞って議論するのは、やはり僕としてはまったく意味不明な語り方としか思えないのだ。しつこいようだけどそういう事をしている人を批判したいのではない(僕はユリイカの楳図特集号以来の栗原さんのファンだ)(事実誤認だったようです。訂正します)。ただ何故色々な人々が――賞賛するにしろ批判するにしろ――「ブログ」とか「2ちゃんねる」とかのある特定の・・・・コミュニティだかサイトだか分からんけど、とにかくそういったある特定の対象に向けてそこまで熱く語れるのかがよく分からないのだ。ピンと来ないのだ。上記したように僕はそれらのものを「ただの道具」以上のものとは全く思えないし、それが道具に過ぎないならば「道具そのもの」について語ることよりも道具を「使う人(ブログの場合はそれを運営するブロガー)」について語るべきだと思ってしまうのである。関心が人間主体(ヒューマニスト的)だとでも言えばいいのだろうか。それこそロッキングオンで行われていたような「音楽(今回の場合はブログ)を通じた自分語り」でもいいから、ブログそれ自体についての言説よりも、ブログを使った人が何を感じたかを聞いてみたいと思ってしまう。加野瀬さんが語る「ブログと我が人生」なら1万円出しても買いますよ!(笑)


上手く纏まらないけれども、これはブログや2ちゃんねるにある人達が感じている期待感というか、「ここではこういう事が出来る可能性がある」という思いが、僕自身には全く無いというのがこういうドライな感覚の大本になっているのかも知れない。ブログが終わってもベログとかボログとかそれを継ぐものが何らかの形で出現するのだろうと思うし、それは表現主体である「誰か」がいる限り決して絶えない潮流だろうと思うのだ。そして僕はその流れそのものについて論じるよりも、そこで声を上げている「誰か」を見ていることに喜びを感じる種類の人間なのだ。たとえそれが自分と違った考えの持ち主だったとしても。

*1:これが芸術分野の「映画」と「小説」だったら表現ツールとしての差異を論じることも十分可能だと思うが、ホームページやブログや2ちゃんねるはテキスト=HTMLという書式が基本的に一緒なので、わざわざ差異化して論じる必要性を感じないのだ