『ユリイカ』2005年4月号(ネタバレ注意!)

僕がこの本を手に取るのは去年7月の「楳図かずお」特集号以来だから、実に9ヶ月ぶりの事になる。


30日の日記を見れば分かるように、僕はこの本に対して幾つか決定的な誤解をしていたにもかかわらず、勝手な先入観から偉そうに断罪する形の糞エントリーをぶち上げ、結果として敬愛する2人の著名サイト運営者の方々からコメント欄で直接御叱りを受けるというこれまでにない貴重な経験をしたのだが(泣)、今思えば――あまり誉められた過程ではなくとも――この本を手に取らざるを得ない状況に追い込まれた事は正解だったと思う。それぐらい、本書の内容は刺激的で、大変に示唆に富むものだった。


本書に掲載された長短様々な優れた批評の一つ一つに言及していけるほどの知識も文章力も無いので、細かい感想は割合するが、全体を通して思った事は、(ツールとしての)ブログが今までの(僕自身、先日まではそんなに大差ないだろうと思っていた)ホームページと決定的に違う点は、観覧者と執筆者の主従が逆転している点だと言う事。今までのホームページは、表現者としての執筆者が観客=訪問者のニーズに答え、それによってサイトのヒット数=人気が高まる形で盛り上がりを見せて行くパターンが殆どだった。だが、ブログにおいてはもはやそうした旧来の評価軸はあまり重要ではなく、むしろ執筆者当人の自己満足を満たすためだけにブログが成立し、それに共感・共振した外部ユーザーが近づき「コミュニティ」を形成するという*1、巨大な自己紹介のようなものが各地に「日記」の形で乱立している状況があり、それがラストの「ネクスト・ブログ」のばるぼら氏をして「全てが飽和した今はもはや退屈でしかない」と断じさせている所以となっているのだろうと感じた*2。なるほどサイトを観覧する側の立場から観れば、観覧する価値のあるコンテンツが(表面上)存在していない状況はまさに「退屈」としか形容しようのないものだろうと思うし、それがスズキトモユ氏の批評(名文!)にある「不毛の大地」の形成に繋がっているのだろうと思う。


もちろん、「ブログは糞。皆別な事やった方がいいよ」だけでは企画が成立しないので(笑)、その「執筆者>観覧者」的な構造に着目した様々な形での「メタ・ブログ論」(以前のエントリーで僕は「何の為にブログをメタするのかわからない」と書いたが、本書を読んだ今ではその疑問はあらかた氷解した。つまり、執筆者そのものに比較優位を持つ性質上、ブログがメタ的な領域から語られるのはごくごく「自然な」行為だと言う事だ(それ以外に語りようが無い、とも言えるが))と、批判もある事を承知した上であえてコミュニケーション・ツールとしてのブログに着目した「コミュニティ・ブログ論」(これは比較的ポジティヴな内容だ)が雑誌全体のバランスを取る役目を果たし、全体としてはブログマンセー的でもブログ否定的でもない中立的な雰囲気になっているのも好感が持てた。もっとも、小谷野氏とスズキ氏の(ブログ否定的な)批評の間に竹熊氏の「たけくまメモ繁盛記」を挟んだりする構成センスはどうかと思ったけど(その点、上野俊哉+泉政文両氏による「接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作者の逆襲?」とその後に続く北田暁大氏による「「ブログ作法とは何か」とは何か」は図らずも論としてお互いを補完し会う形になっていて、大変スムーズに読めた)。


で、全体としてみればとても素晴らしい本だったわけなのだが、これにより今の自分の立ち位置に多いなる疑問を感じた事も事実。このままこの、まさしく「執筆者の自己満足」としか言いようの無いどうしようもないブログを続けることに、かなりの疑問符が生まれてしまったのである。小一時間考えた末出した結論は翌日付のエントリーに書いたので、読みたい方はそちらを。



ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記

ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記

*1:いわゆるmixiはこうした動きをより進化/深化させたものなのだろうと思う(やった事ないから断言は避けるが)

*2:個人的なことだが、僕がさやわかさんに抱いていた決定的な誤解は、ニーツオルグの「読む男 #40」をばるぼら氏の当該批評を補填する形のものである事を読めていなかった事に由来する(ばるぼら氏の批評を読んでなかったんだから当然だが)。さやわかさん、変な言いがかりをつける形になってしまい真に申し訳ありませんでした