せいぎのみかた

plummetさんによるブログ「世界の中心で左右をヲチするノケモノ」が最近ムチャクチャ面白い。エントリー内容の充実も然る事ながら、各コメント欄にbewaad氏はじめとする人権擁護法案関連の論客が勢揃いしていて、法学系の論壇さながらのハイレベルなアツい議論が日夜繰り広げられている。やっぱりあのお茶には何か入ってるんじゃないかと言う疑問はさて置いて(笑)、当該ブログを読んでいて僕が思いを馳せたのは、こうした議論・言論の場における「正義」の在り方に付いてだ。


一般に主体としての「誰か」が「何か」(それは他の「誰か」も含む)について批判的なことを述べる場合に、「誰か」は「何か」の全体或いは一部に間違いがあり、自分がそれについて「正しい」考えを持っていると思っているから批判を述べるのだが、その「正しさ」が主張の内容を超えて前面に押し出されてしまうと、仮に「誰か」の主張が「誰か」の考えに反して「間違っていた」としても、「誰か」はそれについて内省する意識を持つことが出来ず、ただ自分が「正しい」事に依ってのみ言説を行うことになる。それは多くの場合、理性的な論理を伴わない「感情論」であり、それが「正しい」かどうかは論理ではなくそれに向き合う人の持っている「感情」に依ってのみ「正しい」か「間違っている」か裁定されることになる。


その「感情」がそれを発した「誰か」しか持っていないものであれば大した問題は起きないのだが、問題はそれが大多数の人々にとって共有されうる「感情」だった場合に起きる*1。その「感情」はたとい突き詰めて考えたとしても「感情」でしかないのだが(当たり前だ)、それにもっともらしい「理屈」が付与されていた場合、ただの「感情論」に過ぎないものを前述した「感情」を共有する人々が勝手に「正しい論理」だと勘違いしてしまう場合がままある。その「感情」に、そういった「感情」を持つこと自体が「正義」だと言う意味合いが含まれていれば、それはさらに強固なものになる。何しろただの「感情」の癖にそれを持つものは「正義」で、論理性なんて全然関係なくその「感情」を共有できないものは問答無用で「悪」として糾弾できるのだから、する方にとってはこれ以上気持ちのいい「感情」もないだろう。糾弾される方は迷惑としか言いようがないのだが。


個人的なことになるが、僕は生まれてこのかた自分や自分の言ってることが「正義」で「正しい」などと考えたことは殆ど無い。それは自分の社会的な位置づけが、世間的に地位が低いとされる「三流大学生」「オタク」「非モテ」等のカテゴリーに不幸にして当て嵌まってしまっていることに起因しているのかもしれないが(泣)、自分が「三流大学生」で「オタク」で「非モテ」であるのは揺るぎようの無い事実である以上、現実として受け止めるほか無いし、その「業」を背負って生きていく覚悟・・・とまでは行かないまでも、それに近いものは持っているし、また持つように努力もしているつもりだ。それは自分が(少なくとも平均的な日本人からみて)人として「間違っている」からであり、またその「間違い」がそう簡単には修正不能のものである(頭と顔が悪いのは生まれつきだし、「オタク的」と規定される「性格」も今までの人生の積み重ねから形成されたものである以上そう簡単に直すことは不可能だ)からだ。別に自分に限らず、人間は程度の差こそあれ絶対に(ある視点から見て)「悪」と規定されうる何かしらのものを持っているはずだと思うし、そもそも「正義」や「悪」と言った概念自体が主観的なものに過ぎない以上、パーフェクトに「正しい」人間と言うのはこの世に存在し得ない(理論上は)。世間的に「正義」とされる行為/人であっても、ある見方/考え方によっては必ず「悪」であると見なされる認識パターンが存在する。


問題はその「認識」がどのような根拠に沿って行われたかということであり、その「認識」が為された原因は何なのか、その認識が「正しい」/「間違っている」とすればそれを証明する「正義」/「悪」はどこにあるのか、と考えるのが、まあ正常な「議論」の在り方だろう。それをある意味メタ的な「正義」/「悪」論に捻じ曲げ、しかも自分自身を独自の「感情論」に基づいて徹底して「正義」と規定したりすれば、絶対にどこかで論理が破綻し、議論がメチャクチャになってしまう。論理は論理の上にしか構築され得ず、「感情」の上に構築されるものではないからである。それら二つは基本的に分けて考えられるべき事象だろうと思う。


僕がplummetさんをエライと思うのは、「感情」的な反対派に対して徹底した批判を行っていても、自分の側に「正義」があるとはこれっぽっちも考えていないように見えることだ。繰り出される主張は「正義」/「悪」といった主観的な概念の外にあり、いくらでも論理的批判を持って変更が可能なものである。理論はそうして強化され、結果的に万人が納得しうる「正しい」結論を自動的に導く。これは最も「建設的」な議論の発展の仕方だろう。主観的な罵倒でお互いを罵り合っても、できるのは不毛な中傷合戦だけであり、それが何かしら価値あるものを生み出すことはないのだ。


ところで、ここまで書いてふと疑問に思ったことなのだが、自分と自分以外の不特定多数の人々にのみ通用する「感情」の上に乗っかって、自分を「正義」と規定して言論を行いたがる人々と言うのは、「正義」というのがそれほどに価値ある概念だと思っているのだろうか?上記したように「正義」/「悪」の規定なんて所詮は主観的なものに過ぎないし、別に誰かさんから見て自分が「悪」だと思われたとしても、それがよっぽど多数でない限り社会生活を歩むのに支障はないと思うんだが*2。「正義」の人しか生きていけない社会だったら、例えばサブカル界隈で「オタクなりに楽しく生きていく」なんてライフスタイルは絶対に提唱されないと思うのだが。それはオタクがオタクとしての「業」を負った上で肯定的に人生を歩むと言うことなんだが、「正義」の人々はそれすらも許さないと言うことなのか?
あ、そうか、彼らが口を酸っぱくして総連だ創価だ在日だと言うのはそれが「悪」の団体で、糾弾する自分らに「正義」があると思っているからなのか。しかし、自分らが「悪かもしれない」とすら思えない「正義」なんて、主観的に見ても力を持ち得ないと思うんだが。思い込みってのは怖いな。


感情的な思い込みに基づいた「正義」がいかに恐ろしいかは、奥崎謙三の「ゆきゆきて、神軍」と言う最良のテキストがあるので、皆奥崎師匠の声に耳を傾けましょう(笑)。



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*1:人権擁護法案についての一連の騒動の場合であれば「人権擁護法案は間違っている」「人権擁護委員は怖い」といった「感情」がそれに当たるだろう

*2:人々が正常な社会生活を歩むために規定される「法律」に従えない人は「悪」である以前に「犯罪者」なので別