「ザ・クーデター」は終わらない

架空戦記作家の砧大蔵氏が先日6日亡くなられたらしい。


(以下は僕の勝手な独白であるのでネタバレへの配慮なんか知ったことではない)

こんな追悼めいたエントリーをぶち上げておいてなんだが、僕はいわゆる軍事オタクではないし、元々架空戦記と呼ばれるジャンルの読者ではない。砧氏の「ザ・クーデター」や「日朝激突」などの諸作品を読んだのはこの人が以前トップページで熱烈にお勧めしていたからで、また新井英樹の傑作「ザ・ワールド・イズ・マイン」にブレーンとして参加していたこともある砧大蔵という作家の事が前々から気に掛かっていたからだった。何とも底の浅い、ミーハーな読者なのである。が、そんな僕にとっても、「ザ・クーデター」の内容は、相当にショッキングなものだった。


福島連隊長は城山師団長を制した。定年間際の師団長は適当にその場を収拾しようとしていることは見え見えだった。
「師団長が遺族の家庭を回る必要はありません。現地の情勢を的確に判断できなかったのは政府の責任です。軍事組織の作戦運用に関しては素人の役人と政治家が勝手に派遣群の装備を決めたんです。シビリアンコントロールの名のもとに!しかし、これがシビリアンコントロールと言えますか!作戦への素人の介入は現場を混乱させるだけです!何が自衛隊海外派遣法ですか!こんな法律を作った役人と政治家こそ責任を取るべきです!文民が決めた事を何故、制服組が責任を被らなくてはならないんですか!こんな非常識が通用するのは日本だけですよ!海外の軍隊は現地の情勢に合わせた装備を持って行ったんです。そうさせなかったのは政府です!自分は政府の責任を追求したいと思います!だいたい、武器の使い方もわからない素人が何故・・・・」(「ザ・クーデター」プロローグ・「運命の十字路」35P)


フィリピンで勃発した内戦を鎮圧するため、米軍中心の多国籍軍のバックアップ役として派遣された自衛隊が、憲法9条の縛りから必要な防衛行動ができず多数の死傷者を出し、激怒した一自衛官が同調する自衛官達を率いて霞ヶ関を襲撃する・・・・・これが本書、「ザ・クーデター」のメインプロットである。言っておくがギャグではない。作者は本気で言っているのだ、今の日本の法律では自衛隊が軍隊として機能することは出来ないと。憲法9条を改憲し、自衛隊を縛る諸法律を無くすには日本政府そのものを潰すしかないと。むしろギャグそのものなのは、背表紙にも引かれているように、現代の日本に「自衛隊を戦闘目的で海外派遣せざるを得ない状況が来たらどうなるか」の描写である。


「森田さん!撤退命令です。施設や装備を残して上陸地点まで後退せよとのことです」
森田二佐は機関拳銃のマガジンを取り替えて、再び射撃を開始しようとしているところだった。
「何言ってるんだ。もうすぐ敵は総崩れになる。この拠点は死守する!」
「だめです!内閣総理大臣命令です!」
岸田中隊長の大声は爆発音にかき消されそうになったが、それでも森田二佐の耳に入った。
「畜生、米軍と共同で拠点は守りきれるのに」
彼は九ミリ機関拳銃をトラックの後席に放り投げると通信機を取った。
「撃ち方やめ!敷地南端へ集合せよ!負傷者は手術車に連れてゆけ!」
この命令は各班長の通信機に伝えられ、班長たちは次々に命令を発し始めた。
「撃ち方やめ!」
「撃ち方やめ!」
あちこちで命令の声が飛んだ。隊員達は構えていた64式小銃を降ろすと、姿勢を低くしながら弾着の中を南側に走っていった。
それを見て驚いたのは米軍第3海兵師団第7連隊長のケビン・ルーカス大佐だった。
ルーカス大佐は装甲化ハマー高機動車に乗って指揮を執っていたが、自衛隊員が次々と後方へ去ってゆくのを見て、M16式小銃を抱えて車内から出てきた。彼は森田二佐の73式小型トラックまで匍匐前進でやってくると文句をいった。
「おい、何故後退させる!敵を叩く千載一遇のチャンスだぞ。何故戦闘を中止するんだ!」
「上から命令がきました。撤退命令です」
森田二佐は答えた。
「何?そんな命令は聞いとらん。どこが発している?」
ルーカス大佐は憮然としていた。
「日本政府です。政府から我々に対し、撤退命令が出ました。我々は後退します。この拠点は放棄します」
森田二佐はやむを得ない事情をそのまま話すしかなかった。
「日本政府は頭がおかしいのか?戦況は伝えてあるんだろう?もうすぐ眼前の敵は崩れる。この拠点は守れるんだぞ!貴官らの拠点だ!それを私達が守ってやったんじゃないか!」
ルーカス大佐は激昂した。
それには岸田中隊長が答えた。
自衛隊は任務達成のために戦闘をしてはいけないのです。あくまで正当防衛のみの戦闘しか許されておりません。現在、行われている戦闘は正当防衛を逸脱し、過剰防衛になっていると政府は判断したのです」
「任務達成のために戦闘できない?それじゃあ、自衛隊は何のためにこんなところへやってきたんだ!」(「ザ・クーデター」第3章・「政府」135P)


自衛隊員の暴走をただセンセーショナルに描いただけの作品なら、そこらへんの三文戦争映画と大して変わらないだろうが、本書の主眼は表題から連想される「クーデター」を描くことにはない。あくまでも「クーデター」が必然として起きなければならない背景と、そんなものが起きてしまう事の狂気の理由を執拗に描いているのである。
偏執的なまでのこだわりで描かれるありのままの姿の軍隊とそこに生きる自衛隊員の人間像は、一見実に荒唐無稽なストーリーに確かなリアリティを与えている。作者の都合で歪められたアレゴリカルで人工的な世界を描く事の多いこのジャンルにおいて、砧氏はひたすら現実と地続きであることを志向する。これはある意味でSF作品に近いと思う。SFと比べると現実味がありすぎてまさしく「洒落になっていない」のだが。


またこの小説で言う所の「クーデター」は字義通りの意味だけでなく、かなり文学的な意味合いをも匂わせている。主人公として「クーデター」を指揮する自衛官・福島春樹第1普通科連隊長は、父親が自衛官であることで学校で虐めにあった過去を背負っている。


「先生を信じて。先生の仲間に入れば、世の中の事がわかるようになるわ」
強引な先生だ。ガキを捕まえてオルグするなんて、小学生に対する洗脳工作じゃないか。というか、この当時の教員というものは殆どそうだったのか。いやだ。先生の言うとおりになんかならない。先生の言う世の中なんて幻想だ。親父は自衛隊に誇りをもっている。辞めさせたりなんかしない。自衛隊がなくなったら、北朝鮮も中国もやりたい放題になる。自衛隊は必要だ。
「やだ!僕は先生の言いなりにはならない!」(「ザ・クーデター」第1章・「瑕」47P)


本来「体制側」であるはずの保守が逆転しカウンターとして起こす「反抗(クーデター)」は、福島が将来起こす「クーデター」とダブルミーニングになっている。
自衛隊の権利と9条改憲を叫ぶ小説が、その構造からして全く「右翼的」でないのは実はこういうことなのだ。本書のテーマは日本独特の左翼的全体主義戦後民主主義の狂気を描き出すこと、つまり、誰もが一度は感じた事のある世界への違和感の正体を暴き立て、それの信望者達に真っ向から唾を吐き掛けることなのだ。映画「マトリックス」もビックリの圧倒的なパンク精神!主張に全面賛成できるかどうかは別としても、僕はこの小説の今時めったに無いゴリゴリの「左翼精神」に感動してしまったのである。そうとも、時代に逆らい、弱者・少数者を庇い、感情の赴くままに(って砧氏は大変理知的な人でもあるが)いけ好かない支配者にファックを叩きつける、これぞ究極の左翼=芸術家の所業である。下らない伝統主義・懐古主義に淫する二流作家が多い中で、軍事・政治系のネタを用いてここまでトンデモないことをやれてしまう現役バリバリの作家は、僕の狭い見地の中ではちょっと見当たらない。


・・・・・だが、こんな生き方をしていると、当然世の中との折り合いをつける事が難しくなるわけだから、いつしか世界と自己との破局が訪れてしまう。実際、この「ザ・クーデター」のラストも(詳細は記さないが)世界観の破壊をもって終わるのである。
世界に向けて、目に見えぬ権力に向けて力の限り拳を振り上げても、腕は無情に空を切り、苦悩の叫びが多くの人に伝わる事は難しい。自己と、自己以外の人間と、そして世界に対して真剣に思索を重ねる人間は概して不幸だが、世を切り開いて行くのはそういう人間の苦悩なのだ。それは決して青臭い煩悶などではない。それは未来への力であり、自分の意思をもってちょっとずつでも周囲を変えて行くためのパワーである。「そんな事を考える奴は気が狂っている」だって?世界が常識的な意味で正常であれば通用する意見かも知れぬが、狂った世界に対して拳を振るえるのは狂人だけだ。世の変革を願っての「ザ・クーデター」は今も続いている。それは終わらせてはならない、より良い世界に向かうための思考の運動であると思う。


砧氏は苦悩のままに彷徨うことに疲れてしまったのかもしれない。少なくとも、巨大な敵にドン・キホーテを名乗って立ち向かう事は、我々の凡庸な想像力で考えられる程容易なことでは無いだろう。しかし僕は、最後までたった一人で世界の狂気と闘い続けた砧大蔵氏に、ただただ遥かなるご冥福をお祈り申し上げたい。



日中激突 (ジョイ・ノベルス)

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漂流自衛隊〈1〉起動篇 (コスモノベルス)

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日朝激突 (ジョイ・ノベルス)

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ザ・クーデター (ジョイ・ノベルス)

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