「パロディ・フラッシュ・フェスティバル(仮)」への反対表明・その2

先日のエントリーに対して、「パロディ・フラッシュ・フェスティバル(仮)検討委員会」のoloさんから丁寧なお返事を頂きました。

なので、今回は上記エントリーへのレスポンスをしてみたいと思います。

今回このブログを立ち上げてから、一番最初に多数の意見を書いていたのが最悪アンチ住人の皆さんなのですが、彼らの意見に目を通すとある事に気が付きます。それは、「パロディ」が何なのか、やっぱり分かっていない or 勘違いしている人が多い、ということです。よくパロディと混同されるものとして「パクリ」が挙げられますが、パロディを「パクリ」だと思っている人、パクリを「パロディ」だと思っている人が、制作者視聴者を問わずあまりにも多いのです。


パロディもパクリも、原作者の許可を取らずに作るという点では共通していますが、以下の点で両者は異なります。すなわち、「パロディ=原作によく似ているけど別物」、「パクリ=原作の一部または全部が何らかの形で使われている」という点です。そう考えれば、パロディは許容され、パクリは許容されないというのは分かると思いますが、この二つをごっちゃにしている人がいるので、「パロディはパクリ」だの、「パロディは手抜き」だのという意見が出てくるわけです。この辺は先日までにさんざん書いてきたので、もう繰り返しませんが。


ネット上のフラッシュアニメーションにおいて、別にパクリはあっても良いとは思います。しかしそれらはあくまで、第三者から非難される可能性がある、ということを制作者が覚悟をした上で、制作者個人の自己責任において制作・公開されるべきものです。もし原作者さんから苦情が来れば、直ちに消さなければいけません。しかしパロディは別物です。パロディまでこのパクリと同じような立場に置かれるというのは、私としては面白くありません。

仰りたい事は分かります。


時事ネタFlashネタを問わぬ幅広いパロディナイズでもってその作風を確立したoloさんのような作者氏にしてみれば、パロディがオリジナルの作品よりも劣っているかに語るような批判は心外でしょうし、ましてやいわゆるパクリとパロディの区別がついていないような人物から一知半解の罵倒を投げかけられるのに怒りを感じるのも無理はないと思います。僕自身も、Flashウェブアニメの領域において独自の発展を遂げてきたパロディの技法を非常に面白く感じている人間の一人であるので、そのような批判は感情的に不愉快ですし、少なくともoloさんの作品群に対して向けられているものであるなら全く的を外していると思います。


しかしながら、「パロディ」にしろ「パクリ」にしろ、その手法的な「定義」を限定的な形に押し込めてしまうのは、いささかやり方が乱暴ではないでしょうか。oloさんは両者の定義として「「パロディ=原作によく似ているけど別物」、「パクリ=原作の一部または全部が何らかの形で使われている」」と仰られていますが、批判でも何でも無しに思うのですけれども、それはあくまでも「oloさんの定義」であって、その定義に他人を従わせる必要は必ずしも無いのではないかと思います。
特に文化芸術方面のこうしたジャーゴンに対しては、よほど歴史と伝統のある分野ならともかく、厳密な学術定義がある場合は少なく、ましてやウェブアニメのようなここ数年で俄かに注目を集めている新興のジャンルにおいて、既存の文化の「パロディ」や「パクリ」の定義を引用もしくは自己流に解釈して「(ウェブアニメにおける)「パロディ」と「パクリ」の定義はコレだ!」と決め付けてしまうのは、かえってそれらの手法が更に発展する余地を狭めてしまうのではないでしょうか。別にoloさんの目的がそうした「定義」を一般に膾炙することにのみあると言うのではありませんけれども、文化的視座から言うとやはりあまり良いやり方ではないと思います。
例えば、oloさんが述べられている文脈において、「パクリ」は悪質な剽窃と同義であり、三者から非難される可能性がある行為として定義づけられているように見えるのですけれども(違ったらすいません)、ことポップミュージックの分野においては「パクリ」は立派な芸術的技法の一つとしてアカデミックな語り口から度々その有効性についての議論が巻き起こっています*1。この例に見られるように、一刻一刻その状況が変化し続けているポップカルチャー(サブカルチャー含む)の分野においては、ある手法の「定義」などそもそも曖昧なものであり、厳密に規定すべきものでは無いのではないでしょうか。


では、上記したような「わかってない奴からの一知半解な罵倒」をどのようにして無くせばいいのか、という話になりますけれども、それは彼らを「わかってない奴」から「わかっている奴」に引き上げる、つまりウェブアニメというジャンルが十分成熟し、ウェブアニメのパロディが当たり前になった段階へと文化全体のレベル自体を底上げして行く他無いのではないかと思います。そうした知的にハイレベルな土壌の上であれば「パクリ」と「パロディ」を(手法として)同じようなものだとして混同して語るような議論は駆逐されるでしょうし、また手法の定義についての議論も活発に推し進められることだろうと思います。oloさんもそうした目的の為に「PFF」を開催しようとされているのかも知れませんけれども、それが上手くいかないのではないかと僕が思った理由は前回のエントリーに書いた通りです。

上記に挙げたような、「パロディとパクリその他の違いがわかっていない状態」が今後も続くのであれば、「ウェブアニメのパロディが当たり前になった段階」は、まず来ないでしょう。だから時期尚早どころか、むしろ今試しにやってみてもいいだろう、と思うわけです。

上記した通り、それはむしろ理屈が逆で、ウェブアニメのパロディが当たり前になった段階」が来ない限り、「パロディとパクリその他の違いがわかっていない状態」は終わらないではないか、というのが僕の意見です*2。ある手法の定着や定義付け(メタ的なものをも含む)が進行するのは、むしろ文化が十分に成熟してからだと考えるのが妥当だろうと、例に挙げたようなポップミュージックの分野などを見ていると強く感じます。

まず「内輪ネタ」に関する指摘ですが、これはある程度は仕方がないことでしょう。仮にこのPFFが開催されたとすると、PFFを告知してくれる媒体は大体決まってきます(大手フラッシュニュースサイト等)。まさか日経新聞が文化面で取りあげてくれるとは思っていません。そういう意味では、ある一定のコミュニティの内部で終始するのは仕方がないことです。運が良ければ結果的に外に飛び出していく可能性はあるでしょう(『萌え系』ビジネスも似たようなところがあるんじゃないかと個人的には思います)。最初から内輪ネタ云々を気にする必要はないと思います。一度やってみる価値はあるんじゃないの? これが私のスタンスです。開催した結果、フラッシュアニメーション界にとって著しくマイナスになることが分かれば、次回から開催しなければいいだけの話ですから。

結論から書くと、私は現段階では「原作者の許可を取らないこと」という規定を設けようと思っています。もし原作者の許可を取ってしまった場合、それは「パロディ」ではなくなるからです。許可を取った上での予定調和的な「パロディ」なんて、所詮「パロディもどき」に過ぎません。


ただし、イベントとしてパロディを募集した場合、主催としてそのようなスタンスを貫き通していいものか、というジレンマはありました。だから、許可を取った場合と取らなかった場合の問題点を一度おおまかに挙げて、第三者からの意見を乞うたわけです。


今回うぼしさんの意見を読んで、改めて「原作者に許可を取ること」が今回のイベントの趣旨にそぐわないものだ、という思いを強くしました。PFFの場合、原作者に許可を取ろうとしたときに発生する可能性のある弊害が、取らなかったときのそれと比べてあまりにも大きいようです。

ううううううん、それはちょっと失敗時のリスクが高くつきすぎるのでは無いでしょうか・・・・・。


開催した結果、フラッシュアニメーション界にとって著しくマイナスになることが分かれば、次回から開催しなければいいだけの話ですから」とありますが、「フラッシュアニメーション界」にとってどの程度の「マイナス」があると考えられるのか、また実際に何らかの「マイナス」があった場合にそれをどのようにしてフォローするかの施策が立てられているのか、上記の文章からは読み取る事ができませんでした。
僕の「コミュニケーションが目的化するのでは」という指摘を受けての方針変更(ですよね?)に再度ケチをつけるというのはなんか粘着っぽくてアレなんですけど、「原作者に許可を取る」という(提出されるパロディ作品に批判があった際の)リスク回避の施策がダメだと分かったからと言って、リスクを回避することそのものをやめてしまうのでは全く意味がないと思います・・・・。


さらに、「原作者に許可を取ろうとしたときに発生する可能性のある弊害が、取らなかったときのそれと比べてあまりにも大きいようです」とありますが、原作者に許可を取らなかったときに発生する可能性のある「弊害」、すなわち「作品の世界観を大切にされている職人さんなどは、パロディを嫌う可能性があります。もしそのような職人さんの作品のパロディを作った場合、当然その職人さんから苦情が来る」ような事態が、果たして「原作者に許可を取ろうとしたときに発生する可能性のある弊害」よりも甚大なものでないと言えるのでしょうか?原作者氏の怒りを買い、当事者及び第三者による不毛な議論を招き、イベントそのものを無茶苦茶にしてしまうような事態の発生可能性を想定すれば、許可を取った際よりもよほど大きな被害が巻き起こってもおかしくないだろうと思います。


・・・・分かって頂いているとは思いますけれども、僕とて別に、単なる趣味やストレス解消の為にこんなケチをつけているわけではないのです。むしろ、出来る事なら書かない方がいいのではと思っていました。しかし、もしこのイベントが失敗に終わって、原作者氏や作品を提出した作者氏、さらには観覧した第三者からその最終的な責任を問われ責めたてられるのは間違いなく、立案者であり主催者でもあるoloさん、貴方なのですよ。
実行する前から確実に問題視されるような「リスク」を内部に抱えながら、そのリスクを回避する有効な手段を設ける事が出来ず、失敗覚悟で突っ走ってしまうような「イベント」は、たとえ実験的意味合いが強いとしても開催すべきではないと僕は思います。失敗の際迷惑がかかるのは一人や二人の話ではありませんし、主催者であるoloさんがその失敗にかこつけて引き受けなければならないダメージも相当なものになるだろうと容易に想像がつくからです。
最初から、このイベントさえ実行できれば後はどうなっても構わないという「捨て鉢」の気持ちであるならば、所詮部外者である僕はこれ以上の批判は行いませんけれども、oloさんが本イベントを通じてさらに作家として飛躍されたいと願っているのであれば、尚更リスク回避の施策は万全に整えておくべきだろうと強く思います。

問題はここです。だからどうしようかねぇ、う〜ん、と考えている段階なのです。何度も申しますが、このblogは「検討委員会」であって、「準備委員会」ではありません。だから、最初から問題をクリアにする為のビジョンがないんです。「問題をクリアに出来るか」「そもそもそこまで考える必要があるのか」・・・ このような点も含めて、色々と検討しようというのが本検討委員会です。その結果、上の例で言えば「原作者さんを絶対に不快に思わせないようにしなければいけないのに、その問題がどうしてもクリアできない」のであれば、 PFFの開催は見送るでしょうね。


そもそもPFFが現実的か、現実的でないか。それを考えるのが本検討委員会です。

上記したように、少なくとも現時点で想定されているリスクを回避する有効な手段が見つからない限りは、本イベントは「現実的」なものにはなり得ないと思います。

余談ですが、「あるほしのおはなし」は、「イラク戦争」の可能性が出てくる前から既に考えていた話(小学生の時に考えたんだったか・・・)で、イラク戦争とは微塵も関係ありません。公開時期が戦争と重なったかどうかまでは覚えていませんが、もし重なっていたのだとしたら偶然ですね。

2003年3月25日
FLASH「あるほしのおはなし」を微調整
このFLASH、結構前に作ったのですが、
偶然にも今回のイラク戦争への
メッセージになるような内容だったので、
微調整しておきました。

あと、「正男君と主体石」は、架空の国のお話ですよ? どこかの国と似てました?w

だから、そういうアイロニーによる責任回避が通用しないのが現実にイベントを開催するってことなんですってば!(笑)

*1:詳しくは当ブログのエントリー「パクリパクられ幾星霜」をご参照ください

*2:補足ですけれども、これはあくまでも(その分野に精通した)一部の「ファン」や「マニア」や「作者」や「研究家」だけの話であり、Flashアニメを楽しむ人(右も左も分からない子供たちも含む)のすべてがそのような意識を持つのは原理的に不可能だと思います。exとしてポップミュージックにおけるオレンジレンジ批判などを思い浮かべてみると分かりやすいかも知れません