「奇子」(手塚治虫)(ネタバレ注意!)

黒手塚先生の代表作にして戦後日本を描いた社会派暗黒ドラマ。


ネットでも似たような指摘を読んだが、田舎の封建的農村の閉塞を描く前半部は文句無しの傑作なのだけど、後半部、天外仁朗こと祐天寺富夫を主人公格に添えた裏社会の抗争劇を描くに当たって物語のテーマがぼやけてしまった感は否めないかも。ラストの救いのないオチも、最初の話で仁朗を責めたてるようなナレーション=神の声が挿入されていると言う事を念頭に置いておけば、第三者的視点からの「勝者なし」のエンディングとして合点も行くのだが、果たして初期のナレーション技法をあの段に至って覚えている人が何人いるかという事を考えると、オチに至る前にもうワンクッション置くような描写があっても良かったかもしれないなあ。ていうか完全に部外者なのに天外家の呪いに巻き込まれてしまった刑事の倅君はあまりにも気の毒すぎる。奇子は結局誰も心から愛していなかったという事がよく分かるエピソードではあるが。


土着精神に基づいた封建権力の確執、裏社会で繰り広げられるミステリアスなサスペンス、GHQの陰謀の展開、それぞれは物凄く良く出来ているだけに最後に至ってそれが一つに統合されるようなストーリーの妙が見られなかったのは、贅沢かも知れないけど作者にそれを易々と実行しうる才能があったと言う事を踏まえるとやはり惜しい。あんまりこれ言いたくないんですけどまさか打ち切りだったのですか?>神様。発表時期を考えるに恐らく先生が従来の子供向け路線に行き詰まって劇画に転向しはじめた時期の作品だと思うのだが……*1


画面については当時の先生の模索的な一面がペンタッチにも垣間見えておもしろいです。ベタの多用もそうだけど、とにかく線を多く使ってデッサン的に陰影をつけたり、セリフ主体の構成を作る為に並列的にコマ割りを配置したり(ちょっと石森先生も入ってるかも)、手塚流劇画作法が一式詰まっていると考えれば分かりやすい。あの流れるような艶のある描線のテクニックを駆使しながら硬質な劇画の技法もしっかり取り入れてるんだから凄い。他の天才が生み出した技法すら俺流に改造して取り込んでしまう人知を越えた器用ぶりが神様と呼ばれる所以だ多分。



奇子 (上) (角川文庫)

奇子 (上) (角川文庫)

奇子 (下) (角川文庫)

奇子 (下) (角川文庫)

*1:奇子」の連載開始は1972年1月、先生の本格的な復活作「ブラック・ジャック」の連載開始が1973年11月。まさかBJの連載に集中するため自主的に打ち切ったなんて事は……