「春陽とわたし」(弥栄堂)(ネタバレ注意!)

The Ancient of Days


日本のFLASHアニメ界でいま最も実力を持ったつかはら氏(弥栄堂)による新作です。
元々は「今日のFlash」コーナーの一作として扱うつもりでしたが、書きたい事が多すぎるので別項にして掲載いたします。

ロマン主義的世界観

甲鉄傳紀シリーズの中で初めて(字義通りの意味での)「夢」をテーマにした本作によって僕が強く感じたことが一つあって、それは恐らくつかはら氏の全作品においてそうなのですが、氏の(「レトロフューチャー」と自称/他称される)戦前の日本をモチーフとしたファンタジー的世界観の大元が、ある種のロマン主義とでも言うべきものにその端を発していると言う事です。
ロマン主義とは18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパ各地で展開された文学・芸術・思想上の一大思潮であり、その定義をWikipediaの該当記事から引くと…

ロマン主義の底流に流れているものは、自由主義、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、異国的なもの、未知のもの、隠れたもの、はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、夢と現実の混交、更には、憂鬱、不安、動揺、苦悩、自然愛などを挙げることができる。

とあります。
上記引用部のうち、特に「異国的なもの、未知のもの、隠れたもの、はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷古代文化)、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、夢と現実の混交」などの部分は、甲鉄傳紀シリーズのどの作品にも程度の差はあれ当てはまるもののように思えますし、特に今作では「少女の見た夢」をテーマとしたことによって、ロマン主義的テーゼの一つである「自由主義、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放」をこれまでになくストレートに表現できているように思います。


ロマン主義の空想的で個性重視の傾向が背景にあると考えれば、甲鉄傳紀シリーズにおける世界観のディティールへのある意味偏執的なまでのこだわりの強度と、古典主義的なリアリズムを備えたファンタジーとしての説得力も大部分説明がつくのではないかと感じます。特に作画方面に関しては、「アート at ドリアン 西洋絵画史」の「ロマン主義」の解説が参考になります。

新古典主義と時代を同じくして、その対立軸としてロマン主義が生まれた。しかし、ロマン主義はその方向が古代へではなく、近代へ、すなわち「個」へと向かっていた。

ロマン主義新古典主義と対立する動きとして現れた。

新古典主義は、単一的で、均整のとれた美を追求した。それに対して、ロマン主義は個性美を追求し、社会の慣行に反抗し、古典主義の様式からの自由を求めた。

18世紀後半の新古典主義に著しい傾向は、社会の教訓、平静、調和、バランス、理想、合理性とあげられる。

ロマン主義はこういったものに対する拒否反応ともいえる。

ロマン主義は、個人、主観、不合理、想像力、自然、幻想的、怪奇的、非現実的といったものを強調した。

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ロマン主義の輪郭をとらえるのは難しい。特質としては、中世趣味、物語趣味、異国趣味などがあげられる。

ロマン派は現実逃避である、とする論がある。「過去への逃避(歴史趣味)、「空間的逃避(異国趣味)」、「想像世界への逃避(文学趣味)」という具合である。

しかし、ナポレオンのエジプト遠征は、ヨーロッパ人を東方世界に近づけ、オリエンタリズムを生んだ。逃避ではなく、新たな現実の発見である。

中世趣味についても、新古典主義派は遠い、自分たちとは直接関係のないギリシャ・ローマ世界を見ていたのに対し、ロマン派は自分たちの足元のゴシック時代を見た。すなわち、自己のアイデンティティにつながるものを探し求めたのである。

この意味において、ロマン主義はまことに現実主義的であり、現代へとつながるものなのである。

ロマン主義は想像力を重視している。我々が日々の生活の中で、想像力を使わない瞬間が一時でもありえようか。たとえば、ドアのベルが鳴る。誰が来たのか想像する。お腹が空く。何を食べようか想像する。

想像力は我々の日常なのである。ロマン主義は我々が気づかずに使っていた想像力を発見したのである。

非合理主義的ロマンチシズム

つかはら氏が得意とする軍事兵器やメカニックの表現は、一見ロマン主義が掲げる自然主義的非合理性にマッチしないようにも思えますが、甲鉄傳紀に登場するメカニックの殆ど全てが、現実に存在しない(できない)空想的な仕掛けを施されたものであると言う事を考えれば、それもまた「非合理性の表現」と呼んでしまっていいのではないかと思います。
つまり、現実にある「戦車」などの軍事兵器をモチーフとしながらも、それに峠を駆ける「カモシカ」のイメージを加味してみたり(「装脚戦車の憂鬱」における装脚戦車)、現実世界で実現不可能とされた発明を復活させてみたり(「オーニソプター」における振翼機)、「鼠駆除機」の外観に現実世界で鼠の天敵とされる動物をそのまま使っていたり(「ウシガエル」におけるウシガエルその他びっくりどっきりメカ鼠駆除用メカ)するこれらは、合理主義の象徴たる「機械」に非現実的で不合理な外見+機能を与えることによって、逆説的に非合理性を表現しているものだと考えられるからです。これは勿論本作における「少女の夢」の中に登場する(海生生物をモチーフとした)数々の奇怪なメカニックにも通底することですし、またよくつかはら氏の作風と比較対照される、アニメスタジオ「スタジオジブリ」の諸作品(というか宮崎駿作品)の作風にすら通底する事だと思います。またこうした非合理的傾向が、(今の所)シリーズが回を重ねるごとに強まっているように見えるのも見逃せません。


画像キャプチャーでも挙げましたが、(ヨーロッパのロマン主義者も好んでモチーフとした)夕陽の逆光に照らされた、巨大な機械の白鯨の勇壮な威容は、子供の頃「海獣図鑑」を穴の空くほど読んでいた身にとっては忘れ難い美しさでありましたし、その他全てのシーンにおいて炸裂するエモーショナルな叙情性は、バックボーンとしてのロマン主義が最大限画面上で機能していることの何よりの証ではないかと思います。

ロマン主義的リアリズム

ヨーロッパのロマン主義者たちはロマン主義を単なる浮き足立った現実逃避的なものとしないために、好んで古典主義的・歴史的なモチーフを使いましたが、本作においてつかはら氏はいつもの「戦前日本」のモチーフは控えめに、「学校」という現代の日本人にとってはある意味最も卑近な現実的モチーフを使っています。
ぼんやりした春の日の学校での居眠りという、日本人なら誰しも一度は経験したことがあるだろう行動が、一気に空想と夢の世界に飛ぶ様は、一見突飛なようでもありますが、ロマン主義的な世界観に現実的アクチュアリティを与えているという点で、工夫のない「夢落ち」とは全く違った機能を作中で果たしています。


また、甲鉄傳紀シリーズには珍しく女性を主人公として「夢を見る」主体に沿えているのは、現実主義的な男性主人公(例えば「装脚戦車の憂鬱」の須藤)と対比される空想的な性格の人物という意味合いであるならば、いささか古典的な手法にも思えますが、普段(現実)の物静かさと夢(空想)の世界での動的表現のギャップを狙った物と思えば合点はいきますし、男性的で荒唐無稽な「夢」の内容に説得力を与える為の、セクシャルなイメージを感じさせないあのキャラクター造形なのでしょう(これが仮に宮崎的ヒロインだとすると全然違う話になってしまいますし)。

ロマン主義的アプローチの問題点

上では一貫して甲鉄傳紀シリーズにおけるロマン主義的アプローチを肯定的に扱ってきましたが、この伝統ある手法には幾つかの大きな矛盾点、批判点の存在が指摘されていることもまた事実です。


ロマン主義はその非合理主義的性質から、全てを「ロマン的なるもの」の総体的意思の産物と定義し、当時のフランスやドイツの国家観、民族観に大きな影響を与え、政治的ロマン主義を生み出して国家の統合を図ろうとする政治ムーブメントを加速化させました。その中で生まれたものの一つが、独裁者ナポレオンによるボナパルティズムであり、また20世紀の全体主義思想に連結していると言われる民族主義国家主義です*1
「民族」や「国家」や「神」を共通のイコンとするロマン的な共同体の恐ろしさは、それが「同じロマンを共有している」という点においてのみ強固な繋がりを持ちつつ、同一のロマンを共有しようとしない(ロマンを破壊する)他者を容赦なく排撃するという性質を持っていることであり、それ自体が(非合理的な)「ロマン」の殻に護られている以上、合理主義的アプローチからの批判が極めて通用しにくいという点にあります。


21世紀においてボナパルティズムを実践する政治家が宰相を務めるこの国の戦前時代をテーマとして、つかはら氏が好んでナショナリスティックなモチーフを自作に用いていることは、それ自体上記したロマン主義の問題点と密接に関係しているようにも思えますけれども、まあ政治的イデオロギーの事は(個人的には)どうでもよく、問題はそうした(ロマン主義的な)アプローチの射程範囲が同一のロマンを持つ者(観客)に限定されてしまう可能性があるのではないかという点です。
つかはら氏の前作「ウシガエル」が各方面で絶賛を浴びたのは、レトロフューチャー的ロマンの実践を越えたエンタテインメントとしてのストーリーの面白さと工夫が評価されてのことだったのではないかと個人的には思っているのですけれども、本作「春陽とわたし」ではロマン主義的アプローチが「ウシガエル」よりさらに前面に押し出された分、「ウシガエル」にあったような娯楽的ストーリーは希薄で、(「非合理主義的ロマンチシズム」の項で述べたような)海生生物やメカニックに対する「ロマン」を共有できない人にとっては退屈なものと見なされかねないのではないかという危惧もありますし、また「ロマン」部分の表現が実に見事だった分、それが(ストーリーや娯楽性の不足によって)多数の人に伝わらないとすればとても勿体無い事だと感じもするのです。

おわりに

勿論、上記したような「娯楽性」や「ストーリー」が無くとも、つかはら氏の作品はその圧倒的個性と技術力によって今後も一定数以上のファンに支持されていくことでしょうし、それはそれで一向に問題はないのですけれども、最近のつかはら氏が(BroadStarのインタビューにもあるように)明らかに商業メディアの中に組み込まれた(万人に楽しめる)エンタテインメントをその作風として志向しているように思える以上、一ファンとしてこの異様にマニアックな新作を無邪気に絶賛するのはどうかと思い、批判的なことも含めてウダウダ書かせていただきました。
今後、弥栄堂の「ロマン」がどのような方向に向かっていくのかは読めませんけれども、どのような形であれ我々の想像を大きく越えるものになるだろうという期待を込めて、今回の論とさせていただきます。

おまけ

ロマン主義」についての参考URL一覧(はてなブックマークによる)

*1:政治的ロマン主義について詳しくは、電網山賊さんによる「シュミット『政治的ロマン主義』より」などを参照