おけぐわさんへの返答―Flashのツールとしての汎用性について

丁寧なレスを頂いたにもかかわらず、「ユリイカ」のばるぼら氏の批評から受けたショックがあまりにも大きく(笑)サイト名変更やら何やらでお返事できずにいました。お待たせしてすみませんでした。


さて、この議論はそもそも僕の書いたエントリー「例のFlashの作者氏が紅白Flash合戦にも出場した有名人だった件」に対しての意見として提示されたおけぐわさんの「[特集-8] 政治的フラッシュも飽くまでエンタメであるという見方」というエントリーに端を発しています(何言ってんだかワカランと言う人は当該リンクをご参照願います)。上記エントリーの中でおけぐわさんはFlash「「無色」なメディア」と表現し、「果たして政治的フラッシュは「エンタメ」であるべきなのか、「報道」であるべきなのか。前述の通り、Flashというツールは「無色」なメディアですから、そのどちらを作ることも可能です。つまり、フラッシュだからどうだ、という議論はあまり意味がありません。」と書かれました。それについて僕がコメント欄にて疑問を呈したところ、おけぐわさんから冒頭に挙げたお返事が返ってきたと言うのが今回の流れです。


レスに当たるエントリー、「[特集-8] 私にとってはツールも含めてフラッシュだった」の肝は、(以下引用します)

だから私はフラッシュは(自分の腕さえ伴えば)芸術表現だろうが言論だろうが、何でも作れる万能ツールだと認識しています。

・・・だと思うのですが、僕自身が考えて出した結論を言ってしまうと、それは間違いではないが、「万能ツール」という言い方にはかなりの語弊があると言わざるを得ないのではないかと思います。


そもそも、「ツール」=「道具」とは(goo辞書から引けば)、(1)物を作り出すため、あるいは仕事をはかどらせるため、また生活の便のために用いる器具の総称や、(2)他の目的のための手段・方法として利用される物や人のことを指す名称なのですが、上記引用部のおけぐわさんの主張を是とするなら、Flash「万能ツール」であるからにはその使用する目的であるもの、つまり芸術表現や言論の制作のために開発されたツールであると見なさなければ論理上おかしいわけなのですが、Flashの開発元であるMacromediaのFlash MX 2004の製品概要にはこうあります。

Macromedia Flash を使用すれば、グラフィック、オーディオ、テキスト、ビデオなど、あらゆるメディアが統合された、インパクトのある魅力的なコンテンツとユーザー体験を構築できます。しかも、作成したコンテンツは世界中でインターネット接続された PC の 97% に加え、広く普及している各種の非 PC デバイスでも再生できます。

Macromedia Flash MX 2004 製品ラインには、Flash MX 2004、Flash MX Professional 2004、Flash Player を用意しています。

コピーライトなので表現がやや抽象的すぎる嫌いはありますが(笑)、上記引用部にはFlashで作成できるものの代表例として、「グラフィック、オーディオ、テキスト、ビデオなど、あらゆるメディアが統合された、インパクトのある魅力的なコンテンツとユーザー体験を構築できます」とあります。これは「グラフィックでもオーディオでもテキストでもビデオでも自在に作れる」と言う意味ではありません(少なくとも文脈上は)。あくまでそれらを統合した、例えばホームページ向けのリッチコンテンツやアニメーションの作成に向けられたツールであることを示しているだけで、それらを構築する要素の一つ一つすら「自在に作れる」ツールであることを示しているのではないと思います。事実、(多すぎるのでいちいち例は挙げませんが)現在ウェブページ上で機能しているFlashは上記したようなホームページコンテンツやアニメーションの制作において用いられているケースが殆どであり、「テキストやオーディオも使える」からといって学術論文をFlashで提出したり、mp3の代わりにFlashを使って音楽を聴いているような人は(僕の知る限り)いません。それはFlashがそれらの目的の「道具」として使われることに「向いていない」からであり、それは返答エントリーにあったような「技術者の腕前」とは全く関係ない、単なるツールとしての適性の問題であると、僕は考えます。


「向いているかどうかは問題じゃない。それらを作ることが可能かどうかの問題なんだ」と思われるでしょうか?確かに、「可能である」と言う意味であるならばFlashを用いればテキストやオーディオを(そのFlashの内容として)貼り付けることは「可能」であり、それによる「言論」や「作曲」も不可能ではないと思います(素直にhtmlベースやmp3ベースでやった方がはるかに利便性は高いと思いますが)。しかし、それらをあえて(利便性を無視して)Flashベースで行うことに意味を見出そうとするならば、どうしても本来の「言論」などとは違った、Flashツールとしての特性に絡んだ問題が出てきてしまうような気がするのです。


日記にも取り上げられていましたが、先日神倉みゆ氏による人権擁護法案に反対するデスノート風Flashが公開を停止しました。原因に付いては件のrir6氏との論争ですとか、いろいろな憶測が飛び交っているものと思いますが、上記のFlashに理屈屋のインテリから突っ込まれるような「問題点」があったとして、それは具体的になんであるとお考えでしょうか?日記のエントリーを辿ると、それはあくまでも当該Flashの「政治的な主張」に還元される類のものだとお考えのように見えたのですが、僕は少し違った考えを持っています。そしてそれこそ、Flashの「ツールとしての特性」に絡んだ、重大な問題点だと言う気がしてならないのです。


上記Flash(もう観覧できませんが)において神倉氏は、デスノートと言うフィクションの登場人物に自己の主張(と捉えられかねない)テキストを仮託し(実際にはこのコピペの内容そのままだったわけですが)、絵や効果音を用いた「アニメーション」として「言論」とも捉えられる「政治的主張」を展開し、結果として一部から強い反発を招きました。その中にはFlash中のセリフ全てをFlash作者の創作だと思い込んだ指摘(rir6氏のが代表例ですね)も見受けられました。ラストシーンで出展元を示さなかったこともまあ原因でしょうが、これが通常の(元ネタのような)テキストを媒介として公開されたなら、ここまで人々に注目されることもなく、またこれほど誤解されることもなかったのではないでしょうか?当該Flashを注目させ、誤解させたもの、それは即ち「言論」における「不純物」だと、僕は考えています。


「不純物」とは即ち「いらないもの」であり、ここで言えば「デスノート」という架空の物語の登場人物に作者の主張を仮託させる構成(これはまあ「出来るだけテキストをわかりやすくするため」と言えば許容範囲かもしれませんが)、それらのキャラクターを表現するために付け加えられた絵(「言論」はことばを介して行われるべき物ですから、本来「絵」など必要ないはずです)、効果音(以下同文)、演出(以下同文)です。これらは「作品をFlashアニメとして」成立させるためには必要ですけれども、「言論」を成立させるためには全く不必要なものであり、また観客の感情を恣意的に誘導する可能性が極めて高いものです。これらに「誘導」されてある人はFlashの主張を鵜呑みにし、ある人は「見るものを洗脳するプロパガンダだ!」と激しい反発を示したのです。果たして、これら「不純物」を加えなければ成立しない作品を作ることを目的とした「ツール」をして、「言論を展開することも可能」と言ってしまって良いものなのでしょうか?

メディアの中にツールという認識が入ってくると、それは例えば「紙」とか「ペン」とか「インク」とかと同じような感覚になってくるんですね。「これさえあれば何でも表現できるぞ」……という。

お気持ちは確かに感覚としては理解できるのですが、例えば「紙」や「ペン」で自己を表現する小説家であるとか評論家(今は皆パソコンを使ってますが)はそれがあくまでも「紙」と「ペン」であり、絵筆や拡声器ではないことに無自覚であっては絶対にいけないと思いますし、それはFlashにおいても同様だと思います。
Flashのツールとしての可能性、それ自体は非常に幅広いものがあるのは事実ですし、僕も勿論新しい試みが為されることには歓迎的なのですが、それが「誤用」であるかないかについての問題は、芸術作品で政治的主張等を行うことへの是非同様、もっと真剣に議論されても良い議題ではないかと思います。