ネット右翼運動を左翼運動の源流にできないか?

R30さんのエントリーを読んで思いついた妄想。


ネット右翼=社会的に成功できなかったルサンチマンを有り余る暇を用いてネット上で発散しようとする精神的に未熟な引きこもりニート*1、という例の偏見と冷笑に満ちた仮定が、正直言って僕は嫌いなのだが、今回はあえてその仮定に乗っかって議論を進めてみる。


まず、何故ネット右翼と呼ばれる人々が左翼的なサイトやメディアで繰り広げられる言論に反発しているのかについて、上記カテゴライズを本気で用いているような人はそれがイデオロギー的な理由に基づいていると思っているようなのだが、僕はそれは間違いだと思う。特定の政治思想を持たず、普段は政治に疎いノンポリな人でも、「悪どい奴を懲らしめる」という正義感(注:皮肉ではないがあまり良い意味ではない)と、「場の空気への順応性」(ex.皆がやってるから自分も)さえあれば、ネット右翼には誰でも割と簡単になってしまうという現実があるからだ。自分のブログで朝日新聞の記事を引用して叩いたり、左翼系のブログのコメント欄で書き込みボタンを押せば良いだけなのだから、技術的な難しさも殆ど無い。
下記の人権擁護法案反対運動なんかも、参加しているのは殆どが普段はノンポリで政治や法学に対する知識の疎い人(これは僕も人の事言えないけどね)ばかりで、普段からポリティカルマニアの人や法学に対して高い知識のある人はまず参加していない(でなきゃああも根本的な事実誤認を繰り返すわけ無いし)。政治家の人も反対表明してるんですけどー、という反論があるかも知れないが、それは法案を廃案に追い込むためであっていくら何でも本気で反対運動の主張に賛同しているわけではないのだろう(小倉さんはマジで批判してたけど)。


上記仮定上の「ネット右翼」の行為が(否定派の見解通り)ひたすら不毛だとすれば、それは実際性を伴っていない机上の空論に時間を費やしているという点だろう。実際の社会に出ればただの一有権者に過ぎなくとも、インターネットでは声が大きく数に勝るものの意見が必要以上に通ってしまう場合があるから、現実的に何の意味も無くても左翼系のサイトを潰したり政治家を批判したりすることで現実でそうできない事実への代替行為をしてしまう。その動きが結局はネット右翼自身の意図せざるところに帰結してしまうとすれば、成る程それは不毛以外の何物でもない。だが、本当にそれだけなのか?


実際、今このインターネット上で、社会的に強権を持ったメディアを批判することにどれぐらいの効果があるのかは別として、ネット右翼に足りないものが攻撃命中率(=正しい糾弾対象(というと日本語的にヘンかもしれんが)に狙いを付ける能力)と上記したような実社会への影響力だとすれば、逆に言えばそれら二つが揃えばネット右翼も十分力を持ちうるといえるんじゃないか?それは社会を変革せんとする力ではないか?


「社会を変革する力」というと何だか左翼みたいだが、実際の話、以前僕がgachapinfanさんから受けたご批判のように(笑)、今のネット右翼運動は昔の左翼のそれに似ていると思う(当人達が気付いているかどうかは別としても)。そもそもネット右翼は社会的に大した影響力を持てず、現在の社会に不満を持っている「反体制側」の人間だし(注:あくまで仮定です)、搾取的な強者を糾弾し弱者たる自分達の「権利」や「人権」を守ろうとする行動の方向性はまさしく左翼的。もちろん、「建前論で話が延々と堂々巡りし、無為に時間を浪費させる頭の悪い労働組合は存在しないほうが良い」のだが*2、そこを「的確な糾弾対象」に引っ張っていくリーダー(ホリエモンみたいなインチキ以外の)がいれば、それは案外良い方向に進んでいくんじゃないかと思うのだ。


何で急にこんなエントリーをぶち上げたかというと、R30さんのエントリーにもある上山和樹氏のレポートにショックを受けたから。ネット右翼が嫌いな人はすぐニートだ引きこもりだとバカにするが、ニートだろうが引きこもりだろうが、ある程度生活と時間に余裕が残っている人ならば、レポートのような絶望的な状況にある人に対しても、共感と正義感を持って共に戦えるのではないかと思うのだ。好意的に過ぎる見方かもしれないが、その土台としてのネット右翼運動なら、それほど躍起になって糾弾すべきものでもないように感じるのである。むしろ、付和雷同的にその場の雰囲気だけで心にも無い罵倒をする「お祭り厨」の方が本気でない分よほど危険な気がするのだが(注:「ネット右翼」をそれらの人々をも内包してしまう定義として用いる場合は別)。


まあ、「そういう事が出来ないからニートなんだよ」といわれれば返す言葉もない話でございますが。以上、妄想終わり。


参考:本当は、そのリーダーが400万フリーターから出てこないといけないと思うのですが(finalventの日記・コメント欄より)

*1:ここでは日本語の「無業者」とイコールで使っています

*2:蛇足だが、今の人権擁護法案反対運動は、それが更に進んで「社会への悪影響」にまで至ろうとしているように思う。多分これが最悪のパターン

例のFlashの作者氏が紅白Flash合戦にも出場した有名人だった件

人権擁護法案反対運動自体については、前に書いた通りこの人とかこの人とかこの人が好き放題言ってくれてるので特に補足したい事項もないのだが、例の人権擁護法案反対Flashを半分ヲチのつもりで見てみたら、作者が神倉みゆさんだったので絶大なショックを受けた。既に真っ向からの批判が出ているので(これを受けて多少表現を軟化したようだが)、ここは元Flash板の住人として(笑)、あえて神倉氏を擁護してみたい。


主張のツッコミどころについてはほぼrir6氏の批判で言い尽くされてしまっているが、Flashが表示されているページの下部に記述がある通り、このFlashの主張はほぼこのテキストの要旨をなぞっただけのものだから、忠実に映像化しただけの作者を捕まえて馬鹿呼ばわりするのは少し酷であるような気がする。どうしようもない内容の小説を映画化したとして、映像化した監督を「脚本がまずい」といって責めるのは不適切だろう(企画に乗っかってしまったことの責任はプロデューサー含めあるが)。下部にもあるが、神倉氏の目的は人権擁護法案に関する一連の議論をより広範囲に敷延することにあり、広義のプロパガンダとは少々違った意図を持って本作を制作したのではないか、と感じるのだ(結果的にプロパガンダと変わらないものになってしまっているという批判は有効かもしれんが)。


内容がDEATH NOTEの登場人物に仮託されたフィクションの形態を採っていることも、プロパガンダ的だという批判に対して、躱すとまでは行かないまでも、それなりのエクスキューズとなっている面はあるのではないかと思う。フィクション作品に作者の主張、恣意的な印象操作が含まれているのはいわば当然のことであり(というか物語とは本質的には観客の感情を誘導する装置のようなものだ)、むしろその程度のことも分からず主張を真に受けてしまう方が頭脳がマヌケ(ポルナレフ風)と言われて批判されるべきなんではないか。これは去年のマイケル・ムーアへの批判論にも感じたことなのだが、ドキュメンタリーだのノンフィクションだのと「真実に近い」とされる形態を採っていても、作者の手を経た創作表現は、その時点で絶対に虚構性から逃れられないのである。これを無視することは即ち「現実と虚構を混同する」事であり、フィクションに対しての一番危険な向きあい方だと思う。


・・・・ん?ここまで書いて気付いたが、ひょっとしてFlashアニメって世間では創作表現として認められていないのか?それは悲しいなあ。その気になれば商業アニメにも負けない作品が作れるツールなんですけど。インターネットではそれなりに市民権を得ている表現方法だと思ったんだけどなあ。


まあ、主張云々以前にFlashとしての出来が雑すぎたってこともあり(突貫工事で作ったのだろうから当たり前なんだが)、単なるアジビラと同一視されてしまっても致し方ない面はあったとは感じる。次回作からはこういうのは止めてくださいね。これだけの作品が作れるスキルの持ち主なんですから。これはファンとしての素直な気持ち。