例のFlashの作者氏が紅白Flash合戦にも出場した有名人だった件

人権擁護法案反対運動自体については、前に書いた通りこの人とかこの人とかこの人が好き放題言ってくれてるので特に補足したい事項もないのだが、例の人権擁護法案反対Flashを半分ヲチのつもりで見てみたら、作者が神倉みゆさんだったので絶大なショックを受けた。既に真っ向からの批判が出ているので(これを受けて多少表現を軟化したようだが)、ここは元Flash板の住人として(笑)、あえて神倉氏を擁護してみたい。


主張のツッコミどころについてはほぼrir6氏の批判で言い尽くされてしまっているが、Flashが表示されているページの下部に記述がある通り、このFlashの主張はほぼこのテキストの要旨をなぞっただけのものだから、忠実に映像化しただけの作者を捕まえて馬鹿呼ばわりするのは少し酷であるような気がする。どうしようもない内容の小説を映画化したとして、映像化した監督を「脚本がまずい」といって責めるのは不適切だろう(企画に乗っかってしまったことの責任はプロデューサー含めあるが)。下部にもあるが、神倉氏の目的は人権擁護法案に関する一連の議論をより広範囲に敷延することにあり、広義のプロパガンダとは少々違った意図を持って本作を制作したのではないか、と感じるのだ(結果的にプロパガンダと変わらないものになってしまっているという批判は有効かもしれんが)。


内容がDEATH NOTEの登場人物に仮託されたフィクションの形態を採っていることも、プロパガンダ的だという批判に対して、躱すとまでは行かないまでも、それなりのエクスキューズとなっている面はあるのではないかと思う。フィクション作品に作者の主張、恣意的な印象操作が含まれているのはいわば当然のことであり(というか物語とは本質的には観客の感情を誘導する装置のようなものだ)、むしろその程度のことも分からず主張を真に受けてしまう方が頭脳がマヌケ(ポルナレフ風)と言われて批判されるべきなんではないか。これは去年のマイケル・ムーアへの批判論にも感じたことなのだが、ドキュメンタリーだのノンフィクションだのと「真実に近い」とされる形態を採っていても、作者の手を経た創作表現は、その時点で絶対に虚構性から逃れられないのである。これを無視することは即ち「現実と虚構を混同する」事であり、フィクションに対しての一番危険な向きあい方だと思う。


・・・・ん?ここまで書いて気付いたが、ひょっとしてFlashアニメって世間では創作表現として認められていないのか?それは悲しいなあ。その気になれば商業アニメにも負けない作品が作れるツールなんですけど。インターネットではそれなりに市民権を得ている表現方法だと思ったんだけどなあ。


まあ、主張云々以前にFlashとしての出来が雑すぎたってこともあり(突貫工事で作ったのだろうから当たり前なんだが)、単なるアジビラと同一視されてしまっても致し方ない面はあったとは感じる。次回作からはこういうのは止めてくださいね。これだけの作品が作れるスキルの持ち主なんですから。これはファンとしての素直な気持ち。