えら〜氏の「練習・イラスト」板325番作品問題について

(間違って読みに来てしまった人へ:本エントリーは朝目新聞議論板に対するレスポンスとして掲載されたものです)


机器猫様による議論終了の御達しが出た後で、非常に身勝手な行動だとは思うのですが、ほとんど結論らしい結論も出ぬままの終結に本心で納得の行っていない方が(僕含め)いらっしゃるのではないかと思ったので、当該の問題に関する僕なりの考えを書いてみます。


1スレ目2スレ目の議論の概観はざっと把握したつもりでいますが、多くの人が「えら〜氏の絵のみに個別的な問題」と「朝目新聞の投稿全てに共通する問題」、即ち今回の場合で言うならば「えら〜氏の絵が作品として事故の犠牲者への追悼の意を示すものであるか/不謹慎であるか」は前者、「「朝目新聞」というサイトにそのような時事を絡めたシリアスなテーマの絵を投稿することは許されるのか/てゆーか空気読めよ」といった問題は後者に当たりますが、それぞれ別の位相で語られるべきこれら二つの問題をごっちゃにしたまま問題提起を行ったため、議論が混乱して論理が著しく破綻している場面が幾つも見られました。僕はこの二つの問題はそれぞれ別次元で語られるべきと考えているので、ここではっきりと両カテゴリーを峻別したいと思います。

・問題1.現在進行形の時事、しかも死者が出た大事件に材をとって絵を描くという行為を許容すべきか?
・問題2.既存作品のパロディ・ギャグなどを中心とする「朝目新聞」の掲示板にそのような内容の絵を投稿するという行為を許容すべきか?
以下ではそれぞれの問題について順を追って考えていきたいと思います。


  • 問題1.現在進行形の時事、しかも死者が出た大事件に材をとって絵を描くという行為を許容すべきか?

今回のケースに限って言えば、当該行為を許容するかしないかに関わらず、「花を贈るようにイラストを描」いたという(1スレ目の[21]参照)えら〜氏の意図は完全に失敗したとしか言いようが無いのではないか、と思えます。


まず、同レスで自ら「絵が下手すぎ。意気込みばかりでとうていテーマを背負えるレベルに達していない」と言われているように、お絵描き掲示板の表示が正しければ僅か45分で書かれた、しかもあのように大変抽象的な絵によって「犠牲者に花束を送るような厳かな追悼の意」を伝え切る事は、完全に、とは言いませんがほぼ確実に不可能なのではないかと思えることがひとつです。
本気で絵による表現を通して追悼の意を表明したいのならば、もっと具象的で書き手の意図がストレートに伝わるような内容にすべきだったでしょうし、また絵につけるコメントやその後の受け手の反応に対するレスポンスにも十分な注意を払うべきだったでしょう。失礼な物言いなのを承知で言いますが、今回投稿された絵ならびにそれに対する一連のえら〜氏のコメントには、そういった「自分の表現に対する誠意と覚悟」が著しく欠けているように見られたのが、今回の騒動の原因なのではないかと僕は思います。


もし僕がえら〜氏と同じ立場に立って、自らの創作衝動に基づいて「あの事件の犠牲者の方々を追悼する絵を描きたい」と思ったならば、「朝目新聞」という不特定多数の観覧者が集まる場所、しかも現在進行形の重大事件が題材であり、そのような事件を題材として選ぶこと、そしてそれを通じて犠牲者の方に追悼の意を表明することの「重み」について深く自覚的であるならば、たとえインターネット上で作品を発表しているだけの素人であっても、絵描きとしての名誉とプライドの全てを賭けて全力で望むのが当然だと思いますし、またそうした莫大な「労力」を絵に対して注ぎ込む事が、犠牲者の方々への何よりの「誠意」として「追悼の意」を表明することに繋がるとも考えられるのではないかと思います。そのような自己の限界に挑戦した「努力」を経てもなお「不謹慎だ」と罵倒するものは必ずいる*1と思われますが、そのような批判も甘んじて受け止め、犠牲者の方々への多くの人々の思いを掬い上げる事が、創作者に求められるべき礼儀であり矜持であるとは言えないでしょうか。
まあ、[21]のコメントにして自ら「このへん動機として「重い」か「軽い」かは私には判断できません」と語っていらっしゃるえら〜氏ですから、ひょっとするとこの題材の「重さ」についてすら無自覚だったのかと勘ぐりたくなってしまいますが(笑)、死者も出ている大事件を材に取る以上、最低でもそうした作品を発表することで受け手がどのような反応をするか、あらかじめ予測しておく程度の想像力は必要だったと思います。「「不謹慎」というのは私の消化力不足に対する言葉」ではなく、単に貴方の表現者としての無自覚さに起因する受け手の嫌悪感の表明でしょう。


このような時事問題に材を取った絵画史上の名作と言えば、僕は真っ先にピカソ作「ゲルニカ」を想起しますが、ピカソの作品が今なお傑作として語り継がれているのは、別にピカソが美術史に残る天才画家だったからではなくて*2、上記したような「題材の「重み」に対する自覚」を深く持った上で、全身全霊を持って作品を(題材云々以前の絵画的な完成度として)傑作と呼べる域にまで高めたから「不謹慎」の謗りを免れて賞賛されているわけです。上記した「自己の限界に挑戦する「努力」」は何も自らの誠意の証明だけではなく、他者へ自分の誠意を信頼してもらう根拠にだってなり得るはずなのですが、その45分という制作時間の短さと最初に述べたような抽象的な内容により、(本当はえら〜氏ご自身しっかりとお持ちになっていたかも知れない)作者の「誠意」を十分に伝えられなかったことが、今回の「お前の絵は不謹慎だ!」という一連のバッシングに繋がっているのは明らかですし、幾ら口先で「自分はあの絵に誠意を込めたつもり」と主張したところで、受け手にとっては所詮伝わらない中身は「中身がない」事と同義であり、作者がそれを言ったところで、表現力が不十分だったことに対するただの「負け惜しみ」に過ぎないと思います。
えら〜氏が今後も朝目新聞で活動を続けるのかは僕の預かり知るところではありませんが、次にこのような題材を選ぶ際には最低限、自分の表現力の限界と、表現した作品がもたらすだろう結果について思慮を重ねる冷静さを持った上でやってほしいです。でないと、今回のような中傷混じりの議論合戦が毎回のように起こらないとも限りませんから。


※このエントリーには続きがあります。http://d.hatena.ne.jp/uboshi/20050202を参照のこと。
上記内容について異論・反論・ご意見・苦情等ございましたら是非ともコメント欄にお書き込みください。

*1:絵の出来や込められた作者の思いとは別次元に、題材の深刻さのみを評定する場合

*2:美術評壇などではそのような理由もあるかも知れませんが、僕の知識の範囲外ですので記述は割愛します