M.C. Escher's work

幻想の版画師ことマウリッツ・コルネリス・エッシャーの作品群を年代別にまとめたもの。


ウィキペディアの記事にもあるように、エッシャーは生涯を通じて独特の数学的理論によるオリジナリティ溢れるデザイン的な絵画を残した事で有名だが、僕としてはエッシャーの絵画の魅力はその理論性よりも、流麗で緻密なタッチによって描かれたモノクロームの世界が生み出す感覚的な不安感にあるのではないかと思っている。色彩を排除/制限することで、彼の作品は始めから現実的な解釈を許さないファンタスティックな様相を帯びているからである。


例えば(ウィキペディアの記述にもあるが)彼の風景画の最高傑作と名高いCastrovalva(1930年)という作品がある。この作品ではまだエッシャー独特の絵画構成の幾何学的効果こそ見られないものの、極端に図式化された雲、見るものの目線を拒絶するようにして背景に埋没する坂道、高所から低所を無理矢理見渡すような歪んだパースは容赦なく見るものの不安感を煽り、絵画を現実から遠く離れた非現実の空間に留め置く効果を持っているように思える。
他にも、黒く仕切られた枠の役目を果たす木の隙間から現実を覗きこんでいるようなCoast of Amalfi(1931年)や、本当は現実空間にあるはずの書き手=エッシャー自身が空想世界に閉じ込められているように見えるStill Life with Spherical Mirror(1934年)など、ファンタジーが絵画の内部を支配しているようなエッシャーの技法はすでにその完成をみている。


またこれらエッシャーの作品で特徴的なのが、黒色と白色の画面における配分の上手さである。彼の画業としては後期作品に属するが、1943年に描かれたBlowballのバージョン違い二つ(これこれ)を比較するとその事ははっきり分かるだろう。モノクロにありがちな黒白お互いの領域の混乱や混ぜっ返しとは無縁な、むしろお互いに引き立たせ合うバランス設定の見事さがあるからこそ、エッシャーのモノクロ作品は多分に幻惑的で魅力的なのである。
晩期に多く見られるカラー作品も悪くはないが、(これこれを比較すると分かりやすいが)カラー作品はエッシャーの絵画が本来持つ非現実感が薄れてデザイン的な色彩が強くなっており、幻想美術としての魅力という点では劣っているように思う。色彩を加えるという事はつまり作品に現実感を加えると言う事であり、モノクロだからこそ許される非現実の展開にはあまり適した手法とは思えないからだ。エッシャー自身も当然このことには自覚的だったのだろう、着色が加えられた作品はその内容面よりもデザイン面で面白さのある作品が多い。


また、初期作品から比較してみていくと、最初は太く荒々しかった絵画のタッチが、技術の進歩に伴って次第に緻密化し、柔らかくなっていく様が分かるはずだが、それはエッシャーの魔術的世界をより幻惑的なものにするために大いに助けになっている。Development 1(1937年)などの、始めはただの点と線の集合体に過ぎなかった物体が、次第に特定の形状に変化していく過程の何ともいえぬミステリアスさはまさにエッシャー作品の醍醐味と言えるものだろう。また完成された図形(この場合は記号化されたトカゲ)が結局は非現実の地平にあるに過ぎないということもポイントとなる。エッシャーの絵画が、「現実が空想に変容していき・・」という、お定まりのシュルレアリスティックなアプローチと一線を画している所以がここにある。彼は絵画に込められた寓意や意味性を嫌ったというが、はじめから全くファンタジー的な地平にあるからこそ、彼の絵画は幻想的なのだ。


その事を象徴的に示す作品が、中期の大作Tetrahedral Planetoide(1954)だろう。暗黒の空間にぽっかりと浮かぶ、幾何学図形とも惑星ともつかぬものに変容した都市の風景。この絵画の世界には卑小な現実が立ち入る隙間など無く、ただただ漆黒の闇と白銀に輝く街だけが、静かに我々を魅了するのだ。