「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」

製作/監督/脚本 ピーター・ジャクソン(「ブレインデッド」「乙女の祈り」)
製作 バリー・M・オズボーン(「フェイス/オフ」「マトリックス」)/フラン・ウォルシュ(「ブレインデッド」「乙女の祈り」)
脚本 フラン・ウォルシュ/フィリッパ・ボーエン
原作 J・R・R・トールキン(「指輪物語」)
撮影 アンドリュー・レズニー(「ベイブ」)
美術 グラント・メイジャー(「乙女の祈り」「クジラの島の少女」)
音楽 ハワード・ショア(「羊たちの沈黙「セブン」)
衣装 ナイラ・ディクソン(「ラスト・サムライ」) /リチャード・テイラー
特撮 ジム・ライジェル(「ファミリー・ゲーム 双子の天使」)
出演 イライジャ・ウッド(「わが心のボルチモア」「ディープ・インパクト」)/イアン・マッケラン(「ゴッドandモンスター」「X−メン」)/ヴィゴ・モーテンセン(「クリムゾン・タイド」「ダイヤルM」)/ショーン・アスティン(「グーニーズ」「戦火の勇気」)/オーランド・ブルーム(「ブラックホーク・ダウン」「パイレーツ・オブ・カリビアン」)/アンディ・サーキス(「24アワー・パーティ・ピープル」)


近所の映画館でSEE版の特別上映があったため、この機を逃す手はないと思い鑑賞。


私論だが、この世には「大きなロマン」と「小さなロマン」がある、と思う。
「大きなロマン」とは、壮大な世界観と、世界観中の大多数の人々に影響を及ぼすスケールの大きな物語があり、個人レベルから離れた未知の驚異に思いを馳せるもの。
「小さなロマン」とは、身近な世界観と、世界観中の一部の人々にしか影響を及ぼさないスケールの小さな物語があり、あくまでも個人のレベルを離れずに展開するもの。


一般に、映画の性質上、アクション映画や冒険映画は前者、文芸映画やアート映画は後者の「ロマン」を選択する場合が多いが、特に前者の「大きなロマン」はその世界観の壮大さと物語の「大きさ」故に、世界観中に存在する個人にまで気が回らず、結果としてデカいだけで中身がない底抜け超大作となってしまっている場合が特に90年代のハリウッド映画では少なくなかった(ex.ジェリー・ブラッカイマーの映画全部)。
それも無理のない話で、世界が「大きい」ことはつまりそれに詰め込み得る容積がそれだけ大きいと言う事であり、作り手にちょっとした慢心や「手を抜こう」と言う気持ちがあればたちまち中身がスッカスカになってしまうのだ。ましてやそうした巨大なパジェットの中で、個人の内面の葛藤などにスポットを当てる「小さなロマン」を成立させることなどほぼ不可能に近い。故に最近ではハリウッドのアクション映画も、あくまで個人レベルの「小さなロマン」を規範としたものが傾向として増えてきている(ex.サム・ライミの「スパイダーマン」シリーズなど)。


だが、世界一の映画工房と職人的なスタッフを持つハリウッドが「大きなロマン」を描けなくなってしまったら、映画という媒体でもはや「大きなロマン」を描く事は不可能になったという論理が成立してしまうのではないか?という危惧もある。元々映画は「人間」を描写するのに向いた媒体ではないのだが(ヒッチコックキューブリックの言葉を借りるまでもなく、記録メディアとしてのその発祥からして「映画=映像」である)、スクリーンにかつて飛び回っていた壮大な「ロマン」を、その身で体験できなくなる時代がやってきたとするならば、それは映画ファンとしてとても悲しい事だ。


ロード・オブ・ザ・リング」の恐るべき達成とは、上記したような世界的な潮流(「小さいもの」>「大きいもの」)に真っ向からファックを叩きつけ、60年代の聖伝たる原作を21世紀に―――限りなく完璧に近い形で―――復活させたという点にある。映像技術だの何だのは、この革命的事実に比すれば全て瑣末事に過ぎない。保守としての古典主義、伝統主義が、昨今の「なんでも先鋭化」な傾向に正面から対立した結果、逆説的に強烈なカウンターとして映画史に二度と消せない轍を刻み込んだのである。
しかもその「大きなロマン」の中には、確かにその中に生活する者達の「小さなロマン」があり、脇役のホビット一人のそれでさえ「大きなロマン」の中に埋没する事はない。これを驚異と呼ばずして何というのか?もちろん、その土台に一人一人の人物的ディティールまでも徹底して描いた優れた原作があった事は想像に難くないが(ちなみに僕はこの「王の帰還」SEE版を見るまで原作は読まないと誓っていたので、未だにトールキンの古典ファンタジーは読んでません(笑))、合計わずか12時間のストーリーの中でそれら全てを描写するのは並大抵の事ではない。それは作り手に映画の全てを掌握する豪快なパワーと、どんな細かいことにも気がつく繊細な神経がなければ成立しないからだ。


そう、「豪快さ」と「繊細さ」、それはこの「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ全ての通低音でもある。大迫力の戦闘シーンに流れるのは戦闘を鼓舞する豪快な曲ではなく、女性ボーカルの染みいるような悲しい歌声であり、王が戦いに赴く騎士達に掛ける言葉は「立派に戦え」ではなく「死ね」なのである。自分すら見失いそうになる巨大な物語の中にあっても、一人一人の命に思いを馳せる繊細な心無くして、誰にこんなセリフが吐けるだろうか?旅を終えた○○○は何も価値あるものを手に入れることなく、ただ自分が役目を終えた事を知り静かにこの世を去る。これは無神経で陳腐なヒロイズムの物語ではない、巨大な(架空の)歴史の中に飲み込まれていった人々をただただ冷徹に描いた史伝なのである。いくらでもベタに逃げられるだろう題材を、そうはせず、世の潮流にトコトン逆らうパンクな物語に仕立て上げたピーター・ジャクソンの反骨魂を、僕は讃えたい。


(以下、ネタバレで細かいツッコミ)


・3作目に至ってもやっぱりアルウェンが出てくるシーンだけは別の映画みたいなのは何とかしてほしかったなあ。どーせファンしか見ないSEE版なんだから、せめて全世界の指輪ファンの顰蹙を買ったアラゴルンとブッチュ〜」のシーンはバッサリカットしてほしかった(笑)。男と女のリアルな恋愛を描けないのはオタク監督PJの弱みなのか、単に彼の才能が黒澤明的過ぎるだけなのかは判然としないが・・(ひょっとしてその両方?)。
・SEE版で追加されたサルマン転落死のシーン。裏切った蛇の舌グリムにさえ容赦無く弓を向けるその姿に僕の中でのレゴラス株がややダウン(笑)。何も殺す必要は無かったと思うんだけどなあ。ブラッド・ダリフ好きなのに。
・これもSEE版で追加されたギムリレゴラスの酒豪対決のシーン。ギムリが潰れても平然と飲み続けるその姿に僕の中でのレゴラス株がまた上昇(笑)。漫画「ONE PIECE」のウィスキーピークの話を髣髴とさせるシーンでした。
・SEE版でもやっぱりただの痛い中年親父にしか見えないデネソール。わざとそう演出してるんでしょうが、あまりにカリスマ性が無さ過ぎてとてもミナス・ティリスの主とは思えません。どっちかというとホビット庄で飲んだくれてるサムの父親110歳って感じです(いやそんなキャラいないけど)。
・今回も一切魔法を使わず杖でオークを殴り殺すガンダルフ。笑えばいいのか感動すればいいのか分かんねーよ!と思いつつパンフレットを読んだら、「指輪物語」翻訳家の田中明子氏のレビュー曰く・・

魔法使いは魔法を使うものの事ではなくサウロンを敵とする者たちを助ける守護天使的存在であると、トールキンは考えていた。(中略)サルマンは堕落して魔術や機械仕掛けを用いたが、ガンダルフはいわゆる魔法を使う事はなく、秘められた力と洞察力をもって、アラゴルンを助け、サウロンと戦う者たちを団結させ、奮起させる(強調引用者)

・・・・とある。つまり、魔法使いが魔法を使うのは堕落の証拠だということである。そ、そんなのありかー!一言ぐらい説明してくれよ!
・ナズグルの首領・アングマールの魔王が何故「男には殺せない」のか、SEE版でもはっきりした事がわからないので、ネットで検索して調べて見たのだが、ここの指輪ファンの会話によると、「ナズグルの首領=アングマールの魔王は人間の男の手によっては殺されないだろう」と予言したグロールフィンデルというエルフがおり、またアングマール自身もその予言を信じていたため、「私は人間の男には殺されない」とふんぞり返っていたら、人間の女&ホビットのエオウィン&メリーにあえなく殺されてしまったという・・・要するにシェイクスピアの「マクベス」の予言と同ネタである。へ、ヘボいよアングマール!相手の種族と性別ぐらいちゃんと確認しようよ!つーかホビット見た目からして人間じゃないだろ!ちょっと待てよ、この説が正しいならばやはり「人間の男」ではないガンダルフでもこいつは殺せたということになりはしないか?うーん余計に解らなくなってきた(笑)。
・フロドほど善人ではなく、サムほど勇敢ではなく、メリーほど強くはない、「ドラえもん」におけるスネ夫ポジションピピンがとても好きだ。
・SEE版で追加された「サウロンの口」の登場シーン、ミスリルの鎖帷子の使用方法が意外!ノーマルバージョンではどこに行ったんだか解らなかったもんなあ。
・灰色港からフロドが旅立つラストシーン、あれ?と思ったのはその場にいたエルフがガラドリエルとエルロンドだけだったから。設定上、永遠の命を捨てたアルウェン以外のエルフは中つ国から去るのでは?レゴラスとかはどこ行ったんだ?と思ったがこの年表によるとレゴラスが中つ国を去ったのはフロドの旅立ちからさらに70年後の事らしい。ふーん・・・。