「ガス人間第一号」(ネタバレ注意!)

製作 田中友幸(「ゴジラ」「用心棒」)
監督 本多猪四郎(「ゴジラ」「マタンゴ」)
脚本 木村武(「妖星ゴラス」「マタンゴ」)
撮影 小泉一(「妖星ゴラス」「マタンゴ」)
美術 清水喜代志(「大怪獣バラン」)
音楽 宮内國郎(「ウルトラマン」)
特撮 円谷英二(「ゴジラ」「宇宙大戦争」「世界大戦争」)/荒木秀三郎(「地球防衛軍」「美女と液体人間」)/有川貞昌(「妖星ゴラス」「マタンゴ」)
出演 八千草薫(「侍」「田園に死す」)/三橋達也(「悪い奴ほどよく眠る」「天国と地獄」)/伊藤久哉(「大怪獣バラン」) /土屋嘉男(「用心棒」「赤ひげ」)/佐多契子/左卜全(「生きる」「七人の侍」)


何故だか昔の日本映画の名作を見てみたいという機運が湧き上がり、DVDで鑑賞。
ネット上での好評に違わぬ傑作だった。


僕も子供の頃はゴジラ映画に人格形成されたクチで、鬼才・本多猪四郎監督作品も(内容が大人向け過ぎて良くわかってないなりに)色々観たのだが、子供心に身につけたゴジラ映画の楽しみ方は、現実からの延長線上にあるものとしてではなく、一種のファンタジー世界として向き合うことだったと記憶している。
それは単純に彼の作品が荒唐無稽なSFの衣装を纏っていたから、ということもあろうが、最大の原因はむしろ、作中世界の人工性にあったように思う。


この「ガス人間〜」にしろ、本作と並び称される大傑作「マタンゴ」にしろそうだが、彼の映画は泥臭くおぞましい人間の情念を描いていても、少なくとも見た目には独特の品格というか観客に作中世界をすんなりと受け入れさせるための巧んだ手際の良さをひしひしと感じる。
例えば本作の冒頭、ガス人間の乗った車が崖下の古い日本舞踊の家元の近くに落ち、追跡していた刑事がてんやわんやで崖を掛け降りる様などは明らかにスタンダードなサスペンス映画の文法に従っているし、またその後、ヒロイン・藤千代が舞の練習をしつつ初登場する衝撃的なシーンなどは、固定カメラを用いてまるで実際の舞踊の舞台のような雰囲気を画面上に作り上げている。役者任せ、その場の雰囲気任せの無駄を排した、徹底した画面のプロダクトの賜物。
謎のガス人間を中心に展開される怪奇のサスペンス、藤千代を中心として展開される雅で日本的な情念の魔境、一見相容れぬ二つの世界がストーリーの進行とともに、ガス人間と藤千代との恋愛を通して、交わり、溶けて、やがて破綻するその様を、グロテスクながらも劇的に美しいものに仕立て上げているのは、つまりはこの監督の作中世界をコントロールする能力の高さであり、またその作中世界が隅々まで人の手が行き届いた「人工的」なものだったことの証左ではないか。


本多猪四郎はその作風と活躍した年代の符号のためか、黒澤明と比較して論じられる事が多いようだが、上記した人工美の構築の上手さを踏まえると、僕はむしろもう一人の日本映画の巨匠・小津安二郎の映画との符号を多く感じる。自然主義的リアリズムの表現に天才を発揮した黒澤と、予め徹底した撮影計画を練った後でクランク・インし独特の手法で人工美の世界を描いてきた小津。世間の逆風にもめげず特撮映画に拘り続けた本多の職人監督っぷりを自己の様式美の世界を煮詰め続けた小津と重ね合わせるのは、いくらなんでも穿ちすぎだろうか?


小津っぽいと言えば、作中の登場人物の人間関係もそうだ。名作「東京物語」を引き合いに出すまでもなく、小津映画では物理的或いは精神的な理由によって「決して理解し合えぬ人間」が多く登場する。この「ガス人間第一号」でも、最終的にガス人間と藤千代がお互いを理解し愛を成就することはない。・・・いや、「理解し合えた」からこそ、愛を成就し得なかったとも言えるか。
これについては老舗の映画批評サイト・CinemaScapeのレビュアー・kiona氏の評論がすばらしいので、一部を引用する*1

 人間と怪物の対立に、道徳も正義もないし、まして和解なんてありえない。あるのは混沌だけだ。『ゴジラ』も『マタンゴ』もそうだった。本多映画における人間と怪物の報われぬ悲恋は、そんな和解できない関係性の象徴としてあるような気がする。よくよく見れば、どの恋も、実に不均衡である。怪物の方は純情の赴くままに人間に惹かれている。しかし、人間の方はやはりどこかで怪物を拒絶している。本当は尾形に惹かれている恵美子、『マタンゴ』のラストの台詞、『大戦争』のグレン、そして、藤千代。怪物として共に生きることを望んだ水野に対し彼女が取った最後の行動は、愛してはいても共に生きることはできないという悲哀の返答であった。少なくとも自分は、そこに哀しい断絶を見出さずにいられない。でなければ、最後に、水野だけが人々に最後を曝す必要がどこにあっただろう?


 ところで、ゴジラのメガホンを取ることになった大森一樹が、本多猪四郎に会った際に、こんなようなことを言われたそうな。


 「初代ゴジラのあの目は、僕が満州で従軍していた時に行軍した農村の農民達が僕達に向けていたあの目だった。」


 黒澤も宮崎もしていない経験を本多はしている。侵略者の片棒をかつがされ、否応なく戦地に駆り出された本多は、自分の心情や能力では到底どうにもならない不条理極まる状況に置かれ、確信したのではあるまいか。この世には、どうにもならない事があるということを、和解できない関係があるということを、どうにも浮かばれない者がいて、そして報われない想いがあるということを。

人工的な意匠に纏われた世界にあって、なお小津や本多の映画が極めて「リアル」なものだとすれば、それは現実も空想も全て飲み込んで咀嚼したものにしか辿りつけない、大人の「諦念」によるのかもしれない。


でも、僕は、ラストシーン、夢も愛も破れて一人死んでいくガス人間の元に手向けられる弔いの花、厳格冷徹な世界にあって作者が最後に残したロマンチズムの方に心惹かれてやまない。・・・・こんな考えは甘っちょろいだろうか。



ガス人間第1号 [DVD]

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*1:ご本人に転載許可を頂いています。為念