「Nightmare City」(Clairvoyance)(ネタバレ注意!)

モララーvsミスター半蔵


先日のインターナショナル版の公開を記念して長文の感想を。
昨年の第3回紅白FLASH合戦でMVPを受賞、事実内容も全130作の頂点に立つに相応しい大傑作で、僕はもう推定で50回以上は観ています(笑)。この作品の魅力は語り尽くせぬくらいあるんですが(いや、ホントにいくらでも語れます)、今日はその中から特に強く印象に残った部分を自分なりに書き出してみたいと思います。

動画!動画!動画!

Flashが優れたアニメーションツールであることは最早疑う余地の無い事実ですが、最初期のFlash、写真やイラストを取り込んで作られたそれは、「写真」や「イラスト」をそのまま動かす事に焦点を絞った、良い意味でも悪い意味でも紙芝居的なものでした。その「画」の美しさはあくまでも素材である写真やイラストの美しさによるところが大きく、本当の意味で「動画」の美しさを見せつける作品が出現するまでにはかなりの時間がかかりました。GIFアニメの領域では既に活動漫画館ののすふぇらとぅ氏が野心的な試みを為されていましたが、GIFアニメに見られるような画を一枚一枚描いていく既存のアニメーションと基本的には変わらない作業は、画をシンボル化して使いまわす事が可能なFlashアニメにはそぐわないものとみなされていました。それの一因には、Flashの画像圧縮能力の限界上、あまり枚数を費やしたアニメーションをすると処理落ちを起こしてしまうという問題もありました。


しかし、この「Nightmare City」は徹底して「動画」の美しさで全編を押し切ります。少なくとも、見ていて静止画と見間違えてしまうシーンなどワンシーンたりともありません。


上記したGIFアニメのように一枚一枚の画を描く作業がその実を結んでいるシーンも確かにあるのですが(ギコとモララーの橋上の攻防は素晴らしい名シーンです)、この「動画」の魅力を生成する過程に最も貢献したのは、本来「動画にそぐわない」画のシンボル化なのではないかと思います。最初の「止まっている都市の背景の空に雲が流れている」シーンからも明らかなように、「Nightmare City」の多くのシーンでは「背景」と「人物」(時には物体も含む)がそれぞれ別々に描かれており、背景が「静止」している時は人物を動かし(最初の雲の流れるシーン、ビル(?)に飛び込む流石兄弟のシーン、(ギコの落下シーン含む)橋上の攻防のシーンなど)、人物が「静止」している時は背景を動かしています(1さんが8等身に追いかけられるシーン、フサギコがモナーに敗北するシーンなど)。既存のアニメーションではごく当たり前の手法ではありますが、Flashでこれほどのレベルの動的表現を実現した例はちょっと見当たらず、画自体をシンボル化(レイヤー化)して動かすという意味では、(WEBアニメーション制作ツールの中では)Flash以外のツールでは表現困難なものとも言えるかも知れません。
また、手法として見逃せないのが、特に人物に関して、一見「止まっている」ように見えるシーンでもしっかりと「動く」処理が為されているところです。風を受けてたなびく耳や、ゆっくりと頭をたれるしぃ、戦闘シーンで小刻みに動く体の表現、これら地味ながら繊細な表現は著しくデフォルメを施されたキャラクターにしっかりとした生命感を付与し、作品が「とにかく絵を動かすこと」のみに耽溺した大味なものとなるのを見事に回避しています。これは後述するカメラワークの手法にも通ずる、み〜や氏独特のリアリズムの表現と言えるでしょう。

押さば引け、引かば押せ

普通、動画(映画でもアニメでも)において「迫力のあるシーン」を作らなければならないと考えたときに、僕のような凡人が真っ先に思いつくのはカメラを対象に「近づける」事です。対象に密着することで対象の所作(多くの場合はアクション)を大袈裟に表現し、肉体的なムーブメントを強調する事が出来るからです。
しかし、あまりカメラを対象に近づけてばかりいると、対象が具体的にどんなアクションをしているのか観客が分からなくなってしまい、迫力はあってもかえって興が殺がれるという事態が往々にして起こります。その際、下手糞な作家はカットバックやカメラの「ぶらし」「揺らし」に逃げてしまったりして、余計に観客の興味を引く事が出来なくなるという悪循環に陥ってしまうこともあります。


しかし、み〜や氏は斯様な愚に陥る事は決してなく、特にこの「Nightmare City」では手法的にかなり思い切ったことをしています。それは肝心のシーンであえてカメラを「引く」事です。
例えば冒頭のギコとしぃが手に手を取りあってトンネルのような場所を走るシーン。普通の作家ならギコとしぃにカメラをズームアップして彼らが一生懸命走っている様子を強調して見せるだろうと思うのですが、み〜や氏はあえてカメラを思い切り「引く」事で彼らが現在陥っている状況を瞬時に観客に認識させ、彼らの歩む道の途方もない長さとその足取りの頼りなさを強調しています。逆説的なようですが恐らく安易なズームカメラよりも、よりストーリーに即したテーマ性を象徴的に表現し得たという意味では遥かにこちらの方が高度で、ユニークな表現と言えると思います。これと同様の「引くカメラ」はモララーが二人の前に襲来するシーン、ギコとモララーが一旦の決着をつけるシーン、さらにはラスト、しぃがモララーに反撃をしかけるシーンで反復され、当該シーンを観客の不安を煽る緊張感溢れるものへと昇華させています。
これはある意味でリアリズム的なカメラワークとも言えると思います。一時の迫力を出すためにカメラを無節操に動かす事は確かにダイナミズムを生みますが、同時にカメラを主観カメラ(登場人物の目線に合わせたカメラ)に限りなく近づけてしまい、第三者が観覧しているというアクチュアリティを失わせてしまいます。み〜や氏はカメラを引いた事で観客に第三者的視点(=「Nightmare City」を見ている我々の視点)を否応なしに認識させ、結果としてシーンそのものを(観客にとって)「リアル」なものに仕立て上げています。


また、小見出しにも挙げたように、エポックメイキングな表現は「引く」シーンのみならず「押す」シーンにもあります。後の「( ゜∀゜)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」でもセルフ・パロディの対象にされた(笑)冒頭の空からギコに迫り来るカメラ(カッコ良すぎ!)はもちろん、バイクに乗った流石兄弟に飛びかかるつー(これは割と正攻法ですが)、ビルでしょぼくれているヒッキーとドクオなどなど、普通に撮ったら「退屈」とみなされてしまいがちなシーンを、「そこでズームか!」と思わず膝をうってしまうような絶妙なタイミングで使うことで、作品への観客の興味を持続させることに成功しています。本作の一瞬たりとも目の離せないスピード感は様々なところで激賞を受けましたが、それは単なるストーリーの展開スピードの速さだけが原因ではなく、こうしたなかなか気付きにくいが非常に重要な動画的技術の積み重ねにあるような気がしてなりません。


他にも、スピード感が必要なシーンをあえて固定カメラで撮ったり(1さんを追いかける8等身〜モナーに攻撃をしかける電車上のフサギコまでのシーンや、モララーに敗北し海底に落ちて行くギコのシーンなど)、通常固定カメラで撮られるだろうシーンであえてカメラを動かしたり(夕陽を見つめるレモナ達のシーンなど)と、通常とは正反対の「発想の逆転」が功を奏しているシーンは、挙げていけば枚挙に暇がありません。これら大胆な手法は作者が自分の作品に絶対の自信が無ければ出来ないだろうものでもあり、Flash掲載ページの「刮目しろ!!そしてひざまずけ!」という強気の発言(笑)もそうした自信に裏打ちされてのものとも思えます。

クライマックスシーンの「欠落」

Nightmare City」の戦闘シーンはどれも溜息が出るほど美しいのですが、見た後で記憶を辿って「あの格好良かったシーンは・・・」と思い出そうとすると、そこだけがぽっかりと「欠落」したかのように思い出せない事に気付きます。僕が若年性痴呆であれば理屈は簡単なのですが(笑)、これはみ〜や氏が本作において、クライマックス・シーンをあえて「描かない」手法を取っていることに起因していると思います。


流石兄弟を襲ったつーを(恐らくは妹者が)倒すシーン、モナーがフサギコの剣を吹き飛ばす一撃を加えたシーン、モララーがギコに気絶するほどの傷を負わせたシーン、そしておそらくは一時的にでもモララーの足を止めただろうギコの剣の一撃のシーン、そしてラストのしぃがモララーに放つ矢のシーンに至るまで、驚くべき事にその全てが画面上ではっきりと描かれていないのです。


これはみ〜や氏がクライマックス・シーンを(技術的に)「描けない」と判断したために取った「逃げ」の処置なのでしょうか?作中の動画の完成度の高さを見る限りでは、そうは思えません。むしろ、み〜や氏はFlashアニメーションの可能性を駆使すると同時に、その限界もよく知り尽くしていたのだと僕は考えます。つまり、画面上で−恐らくは画的にさして面白くも無い−クライマックスを描くよりも(それでもみ〜や氏の筆であれば相当なものにはなったのではないかと思いますが)、読者の想像力に任せた方が得策だと判断したのでしょう。


これは自分の演出力への信頼と同時に、観客への信頼が無ければ出来ない芸当だと思います。周囲の迫力ある演出による、「それ以上の完成度を誇るシーン」の脳内補完を促すのは作者ですが、実際に脳内補完を行うのは我々観客なのですから。自分の想像力よりも観客のそれの方が優れているのではないかと思える想像力のない、傲慢な作家には出来ない芸当でしょう。
そう、み〜や氏は本作において、徹底的に我々の想像力を信頼しています。これについては↓の「「悪夢の街」からの脱出」にて詳述します。

AAに自由を!

上では技術面の話ばかりをしていたので、このあたりから少し内容(ストーリー)面の話をしていきたいと思います。


見ればわかることですが、本作で使われているのはギコやモナーなど、「2ちゃんねる」でおなじみのAAキャラクター達です。彼らは主に本来のアスキーアートとしての広範な用途(本格的なストーリーものから顔文字まで)に加えて、イラストや本作のようなFlashアニメーションの「主役」としての役割を担っていますが、彼らが「2ちゃんねるの」という定冠詞を離れて純粋な「キャラクター」として扱われた事は意外に少ないのです。
そもそも2ちゃんねるにおいてモナー始めとするAAキャラクターは、北田氏風(笑)の言い方をするならば、「学級委員みたいな存在を嗤うようなアイロニカルなコミュニケーション」にその端を発しているので(「オマエモナー」って言うアレだ)、パロディや風刺とは抜群の相性を発揮しても、なかなか(真の意味での)物語の主導者にはなりづらい一面を持っていました。Flashアニメにおいてモナーをオリジナルの世界観のサブキャラとして取り込んだ例としてはこしあん堂さんの傑作「なつみSTEP」が挙げられますが、やはり彼らが既存の何かのメタ的なパロディとしての位置から逃れることはありませんでした(ここでメタ言及の対象を「天使」に持ってくるところが、モナー始めとするAAキャラが我々に与える心理的印象を熟知したたけはら氏の天才的なところなのですが、本稿とは関係ないので詳述は割愛します)。


対して、「Nightmare City」の主人公たちは、「現実にいる何か」の影としてではなく、確固たるオリジナルの世界観の元で、それ以上の解釈が不可能の存在(何しろ隠しラストで(以下隠しを知らない人もいると思うので一応反転。ヒントはスペースキーです(笑))→ギコたちは仮想現実世界における人間の自意識の体現(とそれと敵対するAIシステム)であることが明らかになるのですから!)として描かれています。これを、度重なるパロディ化の領域を超えて、ついに自分の宇宙を獲得したAA達の「スクリーンデビュー」だと言ったら、いくらなんでもアジテート的に過ぎるでしょうか?


何にせよ、今後本作の成功を受けたオリジナル世界へのAAキャラクターの進出が起きる可能性は高いと思いますし、またそれが起きるとするならば、昔の商標登録とかの「商業キャラクター化」とは全く違う、共有されるべき知的財産としてのAAキャラクターの位置がWEB上で決定付けられる日もそう遠くないかも知れません。いちAAファンとしては、今後もこの傾向が衰退すること無く継続していくことを願ってやまない次第です。

「悪夢の街」からの脱出

さて、本作のストーリーは、中核となる要素が分かりやすい形では描かれていないために(隠しラストを含めれば物語の構造自体はむしろ非常に明確な方だと思いますが)、発表当時は「難解」との指摘も多く見られました。解釈としては、ちゃんねるぼっくすのインタビューでみ〜や氏ご本人のお墨付きの・・・・

978 名前: Now_loading...774KB [sage] 投稿日: 04/12/26 07:15:06 ID:0EbrxYea
 Human-Brain Research Final Phase
 近未来、仮想空間で夢を共有することを目的とした科学実験が行われた。
 しかし実験はコンピューター管理AIの反乱という最悪の結果となった。
 が、実験に参加している者たちはそのことをまだ知らない。
 
 AIの反乱によって起こるプレイヤーの虐殺……
 心優しいしぃは、管理AIでありながらもそんなことができず悩む。
 一方、プレイヤーであるギコは空を見上げ、太陽の異変から「この世界」の変化に気付く。
 
 裏寂れた街の十字路で偶然であったギコとしぃ。
 ギコは世界に対する疑問をしぃに告げ、共に脱出しようともちかける。
 それを承諾し、共に旅立つしぃとギコ。
 
 だが、しぃは自分がAIであることを何故かギコに言えなかった。
 フサギコや流石兄弟たち他プレイヤーも異変に気づき始める。
 隠れるもの。逃げるもの。戦うもの。
 
 ギコとしぃは現実世界へ戻るため出口へ向かう。
 管理AIであるモララーはギコの脱出を阻止しようと二人を追跡してくる。
 強力なモララーの攻撃に負け、一度は諦めかけるギコ。
 だがしぃと共に脱出するため再び力を取り戻す。
 
 モララーを撃退し出口にたどり着くギコとしぃ。
 突然しぃは自分が一緒にいけないことをギコに告げる。
 しぃは自分がAIである事は最後まで言えなかった。
 理由が分からずいぶしがるギコを脱出させるため、しぃは世界の境界に巨大な壁を作り出す。
 そして壁の内側で、しぃを敵を認識したモララーがしぃを襲う。
 ギコを救うため初めて力を使うしぃ。
 一方壁の外側では、ギコは消えかける世界から一人脱出する。
 必ずしぃを救いに来る誓いと共に。

この解釈に僕も大体賛成なので(フサギコ始めとする他プレイヤーに対する言及が少なすぎる気もしますが)、以下はこの解釈を採用したものとして話を進めます。


「幻想に支配された管理社会」というSF的モチーフに、映画「マトリックス」との類似を指摘する向きもあろうかと思いますが、こうしたモチーフ、というか世界観の設定は、90年代に量産された自家中毒的な世界観(俗にはセカイ系とか呼ばれたアレです)がさらに進化/深化を辿ったもののような気がしてなりません。目に見えぬ所まで行き届いた支配の形態、明日が必ず来る事すらも信じられない不安・・・・単純に現代のアレゴリーと捉えるのも我ながら安直かと思いますが、こうした社会形態のモチーフは少なくともテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」が流行した頃には見られなかったそれであり、またこの日本でかなりの人々の共感を持ってそれらの作品が受容されていることも事実です。


思えば、大作「Final Fantasy AA」の時から、み〜や氏は「わけもわからず否応なしに戦わされる者達」の物語を描いていました。FFAAには、それでも(とりあえずは)ナナシアという絶対悪的存在がいて、奴を倒せば希望が見えるという展望が(一応は)存在していますが、「Nightmare City」ではそれすらも存在せず、「暴走AIをやっつけろ!」という当面の目的ですら、しぃがギコに寄せる愛の表現でもって相殺されてしまいます。生存のためには愛するものすら殺さなければいけないという矛盾、それは「セカイ系」があくまでも個人の問題として扱っていた「世界の歪み」がほぼ全ての人に膾炙された形態であり、「悪い奴らをやっつける」「権力に抵抗する」といった、旧態依然とした「正義」の論理では決して解決出来ない絶望的な閉塞であり、そのまま個人化し過ぎた現代社会が抱える病理でもあります。
今の社会では「個人」と「社会」をリンクする中間的共同体(昔で言う「ご近所付き合い」や「学校」)が実質的に消滅してしまったために、人間同士の繋がりが希薄で、自分一人の力で世の中を切り開いていくことが求められています。半ば強制的にだとしても、そうできる人は幸福なのでしょうが、現実には手に職が無い、経済的に貧しいなどの理由で、誰からも手を差し伸べられることなく、周囲からは罵られ、家族からは恨まれる大人達が、そしてそんな大人達の元で育った子供たちが大勢存在しています。そんな状況で育った子供たちはきっと、ギコとしぃの愛を理解できず、憎悪するでしょう。それは、あまりにも悲しい。


この揺るがしようの無い現実の病理を、我々がどう受け止め、どのようにして解決を図って行くべきか・・・一見すると、この「Nightmare City」の中で具体的な解決案は示されていないように見えます。
でも、上記解釈を踏まえたうえで、もう一度本編をよーく見てください。難解なストーリーと、それに付属するメタ的な「解釈」の山の後に残された、「真実」の姿が、自然と脳裏に浮かんでは来ないでしょうか?


本作において唯一の人間側の敗北者はフサギコです。彼は(どのような状況だったのかは分かりませんが)即座に武器を発動させているあたりからもギコ以上の実力者なのではないかと思わせますが、結局モナーとの一騎打ちに破れてしまいます。技術や身体能力による「敗北」の理由は、これと言って示されていません。
フサギコと比べるといかにも弱そうな流石兄弟はつーと戦いますが、上記したように一人の時はひたすら逃げ、後に妹者とのコンビネーション攻撃で勝利します(ラスト近くで無事な彼らの姿を確認できます)。どこかのビルに引きこもっているヒッキー&ドクオや、屋上から夕陽を見つめているレモナ達は、そもそも戦闘能力自体が無さそうな気配であるのに、攻撃的なAIと戦っている姿は目撃されていません。1さんと8等身のみ辿った結末が描かれていませんが、8等身が攻撃的なAIとはあまり考えられないので(笑)危険は少なく、また1さんはおにぎりの車に乗り込む事によって(冒頭では)逃げおおせています。そして主人公・ギコは、しぃへの信頼の力によって立ち上がり、「Nightmare City」からの脱出に成功します。


そう、「信頼」、これこそが「Nightmare City」を脱出するための最大のキーワードなのではないでしょうか。単独でAIの驚異に勝利した人物は一人としておらず(ギコですらモララーに止めは差せなかったのですから)、逆に2人以上でバトルに望んだ流石兄弟、1さん&おにぎり、ギコ&しぃは必ず勝利しています。ヒッキーやレモナは仲間と寄りそう事で無事に生存しているように見えます。そして何よりも、この物語の中核にあるのはギコとしぃの種族すら越えた「信頼」の姿なのです。信頼ゆえに彼らは逃げ、戦い、乗り越えることのできぬ壁の存在に涙し、それでもしぃを信じ続けたギコはついに「Nightmare City」から脱出するのです。これを、個人の力を超えた他者との「信頼」が生み出す力の表現でなくて、何だというのでしょうか?これが、否応なしに個人化して行く社会への抵抗の手段の明確な提示でなくて、何だというのでしょうか?


個人化した世界は、往々にして他者への想像力に欠けた人物を生み出します。「自分だけが良ければそれでいい」という極端な自己中心主義を、過去の「セカイ系」と呼ばれた作品群は暗に肯定し続けてきました。あの「マトリックス」でさえシリーズ最終章の「レボリューションズ」では浅薄で独りよがりなメシア待望論を示すに留まったのと比して、「自己を超えた他者」を相対論的に規定する勇気を持った「Nightmare City」のストーリーの、なんと力強く胸に響くことか!冒頭で僕は本作を「50回以上見ている」と書きましたが、その内25回ぐらいはギコとしぃの別れのシーンで泣きました(←バカ)。これは即ち「Nightmare City」が他者への想像力を持つことへのエールであり、観客である我々への想像力を信頼し、称揚している作品であることの証左と言ってもいいのではないでしょうか。


この作品を見た、もしくはこれから観るだろう多くの子供達に知って欲しい。この世には確かに「どうにもならないもの」、「変えようのないもの」も数多く存在しているが、「どうにかなるもの」「変えられるもの」も確実に存在しているのだと言う事を。そしてそれは絶対に一人では実行できない、誰かと信頼関係を持つことの出来る勇気と想像力によって為される他無いのだと言う事を。打ちのめされても立ち上がり手を延ばす、その一歩を踏み出す事が出来れば、「悪夢の街」からの脱出も、きっとそう遠い未来のことではないはずです。



Go, if you come up against a hurdle.
Fight,Fight for tha things you believs in.
Passiom,joy,sorrow,pain and tears.
All they will be pabulum of your life.