「DEATH NOTE」という反人間主義(ネタバレ注意!)

漫画「DEATH NOTE」のテーマは反人間主義であり、その目的は人間の生き死にをゲーム化する漫画をダシにして陳腐な人間中心主義的言説を展開する輩をアイロニカルに嘲弄することだと僕は考える。作者は恐らく、「人間の素晴らしさ」「人間の美しさ」なんてこれっぽっちも信じてはいない。作者はただ推理ゲームがしたいだけであり、人間が自ら「物語」を作っていく可能性を否定したいだけなのだと思う。

DEATH NOTE」には物語が無い。ここでいう「物語」とは辞書的な意味の「人によって語られる事件」のことであり、「人間不在で事件だけが展開するサスペンス」の事でも、ましてや「事件によって語られる人」を指すものではない。お笑いのようだが「DEATH NOTE」の主役はまさしくデスノート(死のノート)以外には無いのであり、人間などはデスノートの驚異を描くための付属物に過ぎない。


人間によって紡がれる「物語」を描こうと思った時、当たり前だが描写的に最も優先されるべきは「人間」を描くことそれ自体である。喜怒哀楽のような感情の表現は勿論、「人間」と一見関わりのない「事件」を描く場合でも、その「事件」がその「人間」にとってどんな意味内容を持ったものだったのか、その「事件」によって「人間」はどのように「変化した」のか、それを描かなくてはならない。そうでなくば物語はただ淡々と事件を羅列した起伏のないものになってしまうからだ。が、「DEATH NOTE」のストーリーテリングはまさにこの「起伏のなさ」によって成立しており、その厳然たる事実がある以上「この物語(のようなもの)は人間を描くことを全く志向していない」事もまた、上記事実から敷衍して導き出す事が出来るはずである。


派手な推理ゲームに目をくらまされがちだが、「DEATH NOTE」が連載開始当初から描いてきたストーリーはただ一つ、「キラの手にあるデスノートを探偵役の人間が奪還しようと画策する」事だけである。FBI編も第二のキラ編もヨツバ編も、今週開始した第二部も全部変わらない。様々な権謀術数が飛び交うこの大掛かりなキャッチボールゲームの中では、人間など作者が仕掛けた推理の迷路の中を右往左往するハツカネズミに過ぎず、彼らがそれぞれの「人間らしさ」を発揮してこのゲームに待ったをかけるような「人道的な」展開は一度とて訪れていないし、おそらくこれからもそうだろう(物語が終わってしまうから)。「正義感に燃える人格の持ち主」という設定(これは設定であって人間性などではない)の夜神局長が、デスノートを預かるときには「局長は正義感の塊ですからね」という松田のセリフに促されてしぶしぶ引き受けたこと、「正義のためキラを止めようとする探偵」という設定のL、メロ、ニアがそれぞれ捜査上で非道の限りを尽くしてきた(ニアはまだはっきりとはわからんが)ことを思い出して頂きたい。彼らは自らの矜持によってゲームを捻じ曲げることも、事件をとおして成長しゲームの枠を打ち破ることもしない。人間達はまさに「ゲームのコマ」として自分達の役割を果たすのみであり、自分で自分の人生を選ぶ資格など最初から与えられていないのだ。


そのことを象徴的に表しているのが、ヨツバ編においてデスノートを放棄した月が見せた一連の驚くべき茶番劇である。あれほどの極悪人が、デスノートを失った途端「正義に燃える天才大学生」として縦横無尽の活躍を始めるあの馬鹿馬鹿しさを、誰が「月という人間の本来持つ素晴らしさの表現だ」などと考えるだろうか?僕はアレは作者の悪意であり、人間主義へのアイロニーだと考える。我々が頑なに信奉する「誰もが持っている人間性」など、外的要因で容易く打ち破られてしまうものだと言う事を、あのお目目キラキライトは見事に表現し尽くしていた。物語における「デスノート>人間」の力関係があそこで決定付けられたのも、今となっては第二部移行のための布石ではないかとすら思えてくるくらいだ。第二部への展開に向けて作者はおそらく、この”物語”を引っ張っていく存在=主人公はあくまでデスノートであり、人間では無いということを改めて示しておく必要に迫られたのだろう。

上の内容と重複する部分も多いが、重要なので別個に書いておく。


漫画評論家伊藤剛氏による指摘にもある通り、「DEATH NOTE」の登場人物は誰一人として成長しないし、人間的な情動に欠けた連中ばかりだ。それぞれ第一、第二のキラこと月、ミサの両名は勿論、おおよそ人としての感情が欠落しているように見える探偵役・L(また彼のそんな特性を確実に継いだメロとニア)、「正義感に溢れる局長」「ドジな新米刑事」「寡黙な実力派刑事」「人間臭い熱血漢(という設定の)刑事」といった自らの役割をストレートに演じ続けるだけの捜査一課の面々、デスノートを求めては返り討ちに合いその命を散らす脇役達・・・・いや、「命」という言い方には語弊があるかな。彼らには自分達の「役割(ポジション)」と「(キャラクターとしての)設定」は与えられているが、上でもしつこく書いたように「人間」として物語を引っ張るポテンシャル(≒命)は持ち合わせていない。上記した茶番劇を見る限りでは、月でさえデスノートの魔力に魅入られているに過ぎないからだ。あえて「人間臭い」キャラクターを一人あげるとすれば言うまでもなく死神リュークであろうが、そもそも死神の方が人間よりよほど人間臭いという「設定」自体に、僕は作者の悪意を感じずにはいられないし、彼は傍観者故に物語を引っ張るだけの力はやはり持たされていない。


「命」がないと言えば、第二部の初回となった今週(20号)掲載の「DEATH NOTE」で僕が最も感銘を受けたのは、ヨツバ編で活躍したウエディ・アイバーの両名と、ヨツバキラの候補として挙げられた6人を冒頭で見事に「処刑」してみせた作者の思い切りだ。彼らはキャラクターとしていかにも使い勝手が悪いし*1、第二部で生かしておく必要性も価値もないと判断したからなのだろうが、「必要が無い」「価値が無い」というだけで切り捨てられるその決断はまさに玩具かモノに対するそれと大差なく、作者の人間に対する考え方を端的に示す材料にはなるのではないかと思う。
関連して、その後の世界観解説で「キラを応援する人間達が続々出現した」という説明が淡々と為されていたのも興味深かった。同じような描写を最近やった作家と言えば、僕は新井英樹の名を思い浮かべるが*2、超のつくヒューマニストである彼の、「人間に対する強烈な信望が裏切られることに耐えられない故の反動的アンチヒューマニズム」とは「DEATH NOTE」の当該描写は(やっている事は同じであっても)はっきりと趣を異にするものだと思う。最初から「人間の可能性」を全く信望していない作者のそれは、「対象への愛情の裏返し」ではなく、単なる「人間」という種に対する諦めと軽蔑の表れなのだろう。「DEATH NOTE」の全ての登場人物と同じように、作中では「その他大勢」として表現されるだろう彼らも「デスノート」の力に魅入られ、神の手のひら*3の上で踊り狂っているに過ぎないのだ。


余談だが、「DEATH NOTE」におけるこれら一連の冷徹な「反人間主義」(ようやくこの言葉を書けたよ・・)は、例の噂に対する有力な反証にもなるのではないかと思う。子供の頃の話だからあまり詳細なことは言えないのだが、少なくとも、僕が好きだった下らないギャグ漫画の作者はこんな怜悧な事ができる人ではなかった。勝利マンも世直しマンも殺せなかったし、ラスボスの全とっかえマンすらスーパースターマンと融合させて生き残らせてしまった。リンク先エントリーにもあるようにネーミングセンスは最悪だったが、それはあくまでも彼なりの脱力系ギャグの表現の一貫としてやっていたのであり、人を人とも思わない「DEATH NOTE」の反人間主義の原理とは根本的に理由が異なる。要するに前者の行いにはキャラクターに対する愛があるが、後者のそれには雀の涙ほども無いという違いがあるのみだ。

いきなり話が変わるが、僕はデスノート板などで主に発表されている「DEATH NOTE」のコラージュを毎日楽しみに見ている。デスノコラと通称されるこれらの作品は、どれも大変に質が高く、ユニークで、素人が作ったとは思えないような傑作も一定の割合で混じっている。
ジャンプ漫画の同人やイラストがネット上で隆盛するのは、今時人気作品であればある程度は必然のようにも思えるが、著作権上の問題から表に出しにくく、またイラストレーションとは全く別の技術とセンスを要求されるコラージュというジャンルがこれほど盛り上がったという前例はちょっと聞いた事がない。しかも2ちゃんねるのような「ネタ」の駆使に命をかける人々ばかりでなく、一般の「DEATH NOTE」ファンも上記掲示板には数多く参加しているのだ。もはや一潮流であるこの傾向は、一体何を意味するのだろうか?単に画狂人・小畑健の模写イラストを書く事が難しいゆえの、従来の同人と変わらぬ絵遊びなのだろうか?


少々「ヘタウマ」な画風の方が「とっつきやすい」ということで同人が盛り上がるなんてのはよく聞く話だが、大変個性的な画風の持ち主である「ジョジョの奇妙な冒険」の荒木飛呂彦がパロディ系の二次創作界隈で神と崇められている現状を鑑みると、一概に作者の画力の上手い/ヘタが問題では無いような気がする*4。要はそれをパロディの対象とした時に、「こんな奴がこんなことをするなんて凄く面白い」と思うか、「こんな奴がこんなことをするなんてありえない」と思うかがそのネタが「笑える」かどうかの境界線なのではないかと思うのだが、後者の「こんな奴が・・・ありえない」の部分が「DEATH NOTE」の登場人物には大変希薄であるが故にデスノコラは面白いのではないかと僕は考える。


これだけでは何を言っているのかわからないと思うので、もう少し詳しく書く。「こんな奴がこんなことをするなんて凄く面白い」というのは、例えば月が実は筋金入りのVIPPERだったというようなシチュエーションであったり(参考)、チョコ欲しさにあびる優のような事を言い出すメロの図であったりする。この二本のコラに僕は腹を抱えて爆笑したが、何故笑えたのかと言えばコラでネタにされている月、メロそれぞれの姿に驚くほど違和感が無かったからだ。「こいつならこんなことだってやるかもしれない・・・」という前提が先にあった上で「凄く面白い」ことをやっているから、「こんな奴がこんなことをするなんて凄く面白い」というロジックが脳内で成立し、屈託なく爆笑できたというわけだ。
逆の「こんな奴がこんなことをするなんてありえない」という例については、上手い例が思いつかないが、上述した「ジョジョの奇妙な冒険」について言えば、「徐倫ストーンオーシャンのラストでエンポリオを見捨てる」というネタコラージュをギャグのつもりで作ってみたとして、それは明らかに「笑えない」ネタになるだろうと思える。徐倫エンポリオを見捨てるような人物ではなく、また見捨てられる動機がエンポリオの側に希薄だからである。ここでは「こんな奴(徐倫)がこんなことをするなんてありえない」という「違和感」が「笑い」の先に経ってしまい、笑えるというよりは「こんなネタで笑っていいのかなあ・・」という疑念が脳内で成立してしまうのだ。作者と絵柄の全く変わらぬ「コラージュ」であれば、その違和感は更に強いものとなる。「いつも紙面で活躍を見ているこのキャラがどうして!」という疑問が頭の中に沸きあがり、人によっては強い不快感を覚えてしまうかも知れない。


そう、デスノコラの面白さとはこの(通常の漫画のコラージュでは発生するはずの)「違和感」が恐ろしく希薄であること故だと思うのだ。上述したように、反人間主義に基づいて作られた「DEATH NOTE」のキャラには「命」もなければ「人間性」も与えられておらず、どんなに突拍子もない事をしても「こんな奴がこんなことをするなんてありえない」という疑問が沸いてくる確立が低い(上のVIPPERネタとあびるネタで笑って頂けた方なら分かると思う)。故に作者(この場合は小畑氏)本来の絵柄と寸分違わぬコラージュの手法でパロディが行われても「いつも紙面で見ているキャラはこんな奴じゃない」という違和感が発生しないため、難しい模写よりもコラージュの方がパロディとして適切な表現として受容されても全く不思議ではない。
さらに、「物語」がないのでそれが本来語られるべき「文脈」がそもそも存在せず、どんなコマとどんなコマを組み合わせても「物語(のようなもの)」が発生してしまうという、まさしくコラージュ向きな理由もあるだろう。登場する人物のストーリー的なバックグラウンドが希薄な以上、どんなシチュエーションとどんな組み合わせを試みても成功する可能性があるという理屈は論理上肯定されるべきだろう。それをもっともよく表しているように思えるのが、デスノコラ文化(?)の生んだ一大傑作マトリックス風デスノートである。この作品では第一部で登場した印象的なコマが様々な場所から引用され、ありとあらゆる手法で組み合わされ、しかも全く違和感なく新しい物語(擬似的だが)を生み出している。もちろん、このコラージュの面白さは圧倒的なセンスと技術力を持った作者氏の腕前によるところが大きい事は事実だが、この傑作コラージュこそ「DEATH NOTE」について僕が延々と語ってきたことの証拠だと言ったら、「どんな対象でも適当にひん曲げて自説に落とし込む」愚劣だと嗤われるだろうか?


これは現在ジャンプで「DEATH NOTE」と同じく頻繁に二次創作のネタにされる和月伸宏の「武装錬金」と対比すると分かりやすい。「武装錬金」はパピヨン始めとする変態キャラのインパクトから2ちゃんねるでもたびたびネタにされたが、「DEATH NOTE」のようなコラージュ作品で面白かったものというとこれぐらいしか思い浮かばない。コラージュっぽい内容でも、「武藤カズキの冒険」のようにイラスト化したものだと面白いのだが、仮にこれを完全なコラージュにしてしまったら全く面白く無いだろうと思える。それは筋金入りの人間中心主義者である和月氏の作品では「キャラの人間性」「そういう行動に至った文脈」が何より重視されるからであり、それを「他人の絵である」というエクスキューズで中和しない限り、「DEATH NOTE」のようなコラージュにはしにくいと考えられるからだ。要するに本当に岸辺露伴みたいな性格のカズキなんて誰も見たくないと言う事なのだが(笑)、その漂白された人格故にどんなことをしても受け入れられる「DEATH NOTE」のキャラクターとは実に好対照を為していると思う。

  • ジャンプ的メディアミックスと「DEATH NOTE

以上で僕が「DEATH NOTE」を反人間主義的作品だと考えた理由は大体言い終えたのだが、何故「DEATH NOTE」のような作品が、和月伸宏尾田栄一郎を中心とする人間中心主義者一派が未だ隆盛を誇っていた「ジャンプ」に突如として登場したのかという疑問は残る。だが、この回答は案外安直に出してしまえるのではないかと思う。考えるに、「DEATH NOTE」の反人間主義はジャンプ的なメディアミックス手法に作品が限りなく適応した結果なのだ。


リアルタイムで読んでいた人はご存知かと思うが、「DEATH NOTE」が登場するまでのジャンプは売上、内容ともにとにかく行き詰まっていた。長期連載作品の迷走、山のように投入した新連載陣も悉くハズレで打ち切り、挙句に当時編集長の高橋氏が急死、ジャンプ編集部は否応なしに方向転換&路線変更を迫られることになった。だが、メディアミックスできる作品はあらかたアニメ化し、大ヒット作品を描けそうな新人も転がっていない現状、「確実にヒットする作品」を誕生させるためにはどうすればいいのか、編集部は散々苦悩したはずだ。「DEATH NOTE」が編集主導の漫画であるという噂は耳にしないが、今回取り上げたような反人間主義的主張が露骨になったのは、間違いなく読みきり時には無かった「主人公が極悪人である」という設定を思いついてからだろうから、それを少年誌で許容したという事実も含め編集部の介入がプロットの段階にあったのは確実だろうと思う。


DEATH NOTE」は「悪人を駆逐する犯罪者と名探偵、どちらが正義なのか!?」というセンセーショナルで「今風」なテーマを見せかけとして掲げて出発し、反人間主義に基づく文学性皆無のB級サスペンスに徐々に方向転換した事で、押しも押されぬ21世紀最初の大ヒット作品として世間に好意的に受容された。作者である大場つぐみ氏と小畑健*5の作者としての努力と天才は勿論だが、編集部もジャンプの全てを掛けて取り組んだ一大プロジェクトだった以上、「必ず売れる」という確信を持って連載に踏み切ったはずだ。この際、彼らの自信の根拠となったものは何なのか?


僕はこれに対する回答を、最初に述べたように、「DEATH NOTE」の作品性がジャンプ的なメディアミックスに適応していたからだと考える。キャラクターグッズの販売やアニメ・ゲームなどの他メディアへの進出を主とする現代ジャンプのメディアミックス手法は、物語が不在であることで原作をいちいち考慮する必要が薄く、またキャラクターを人間では無いものと捉えて「グッズ化」し、必要不用に応じてフィーチャーしたり切り捨てたりする「DEATH NOTE」の作品性に実にマッチしていると思えるからである。実際の「DEATH NOTE」の同人方面の人気の高さ*6、上記したようなコラージュ作品などのネット上での「ネタ」としての利用価値の高さ、ゲームソフト「ジャンプスーパースターズ」への進出など、開始からわずか1年と少ししか経っていない作品のそれとしては異例のメディアミックスへの進出の速さは、そのことを端的に表しているように思う。実現して無いのはアニメ化ぐらいなものだが、それも(倫理的問題に決着がつけば)そのうち実現することだろう。メディアミックスにおいて必要なのはあらゆるジャンルへの適応性の高さであり、その内面的「空虚さ」(=文学性の不在)故にどんな場所にも馴染んで見せるカメレオンのような「DEATH NOTE」の作品性は実にそれに向いていたと考えられるのである。


更に言うと、こうした一見大衆に媚びるような「俗っぽさ」こそが、「DEATH NOTE」の反人間主義牲を一層輝かしく際立たせている、とも言える。我々はメディアミックスされまくる人気作「DEATH NOTE」の殺人ゲームを楽しみながら、口では「キラは悪い奴だよね」と言い、人に道具扱いされる事を憎む人間中心主義の世界に生きている。本作を読みつつ、「「DEATH NOTE」は現代の社会問題を的確に風刺した作品で・・・」などと「人間中心主義的な」言説に耽溺するものもいる。だが、それこそが作者の仕掛けた悪意の罠なのである。つまり、それが人間性の欠片も無い人殺しのゲームだろうが何だろうが楽しめてしまう我々の消費主義的貪欲さと、「DEATH NOTE」の反人間主義を誉めそやしながら実はそれを実生活において人間主義に転化してしまっている偽善をこそ、作者は最も非人間的な感性として否定しているのだ。これは大量の「消費」の対象とされる娯楽的な人気作にしか出来ないことであり、また現代における大衆批判として大変高度な技法と呼べそうなものである。「DEATH NOTE」は大衆に媚びるフリをしながら大衆を嘲笑っている漫画であり、その嘲りはまさしく自身のような作品を持ち上げる輩に対する嘲弄とイコールなのである。こうして長ったらしい言辞を労して「DEATH NOTE」を賞賛する僕自身も、この作品はアイロニカルに相対化し、決して煽りに乗ってやろうとはしないだろう。このシニカルな怜悧さは、旧来の熱血人間主義的作品には成し遂げられなかった偉大な達成だと思う。

  • 人間なんかこわくない――反人間主義の可能性

永遠に終わりそうに無いので、自分なりの「DEATH NOTE」論を語るのはこの辺で辞めにしておきたいが、最後に一言だけ言っておきたいことがある。僕は「「DEATH NOTE」は反人間主義漫画だ」という事で「DEATH NOTE」を否定しようとしているのでは全くなく、むしろ賞賛しようとしているということだ。
上記したように、旧来のジャンプの人間中心主義では絶対に成し遂げられなかっただろう幾つかのことを「DEATH NOTE」はやり遂げ、また漫画史に残る傑作として未曾有の大ヒットを記録した。これは反人間主義という世間ではタブー視されていた技法を取り入れたからこそできた事であり、それを行った作者の勇気と知性は素直に賞賛されるべきであり、本作を例えば「人間が描けていない」などという陳腐で愚劣な俗物的批判によって貶めようとするものがいたとしたら、僕はその人を激しく嫌悪するだろうと思う。人間主義が衰退するときには反人間主義が、反人間主義が衰退するときには人間主義が、それぞれ芸術の領域を絶えず更新していくのが正しい芸術の「進歩」の形態だと思うし、また「DEATH NOTE」の持つ反人間主義現代社会に極めて適切なアプローチだった事は「ジャンプ的メディアミックスと「DEATH NOTE」」の件で語ったとおりである。
DEATH NOTE」の行った反人間主義の全てが成功しているとは僕は思わないが*7、この真の意味で革新的な作品が行きつく先を、僕は期待して見守っているし、またこれからもそうしていくつもりだ。その世界観が自分には受け入れがたいものだからと言って、拒絶し背を向けるのはただの現実逃避である。この作品が「古典」と位置付けられ、語られなくなる日が来るとすれば、それはここで述べたような「反人間主義」が再び人間主義によって超越されるその時であろうと思うし、またこんなことを語っていてもやはり「反人間主義より人間主義の方がいいよなあ・・・」と内心思ってしまっている僕自身、その時が来るのを心待ちにしているのだ。「DEATH NOTE」を否定する者たちがその瞬間に立ち会える事は、決して無いだろう。

・・・良識ある人々は、ただ深い人間描写のみに興味を持ち、それ以外の何物にも心動かされることのないほど鈍感になってしまった。それとも病的なほど敏感にそれに反応してしまう体質が身についてしまったのか。いずれにせよ、そういった良識ある人々こそが世のオピニオン・リーダーとなりたがるのであるから始末が悪い。この手合いが、例えば純粋なゲームであるはずのスポーツに人間ドラマを見たり、けものが餌を求めてうろついているだけの光景に深く感動したりする。ゲームには戦略と偶然が織り成す見事なあやもあるだろうし、自然界には自然界の人間ならざる脅威があるだろうに、彼らはどうもこういう心の動きを上等とは呼ばない。全く同じ方程式に乗っ取って彼らはB級娯楽映画から驚嘆すべき目ざとさで深い人間ドラマをすくい上げてありがたがる。ムッとはなるが仕方ない事なのかも知れない。第一私だってそれですくい上げられたひとりだ。しかし、もう我慢できなくなったから言うが、私にその資格はない。私は上等の人間ではない。私は本来は人間ドラマに興味がない。最後に勝つのが常に優れた人間描写なのだとしたら、よく勉強した人、本を読む人、人生経験豊かな人こそが優れた映画を撮る資質の持ち主なのだと言うことになり、そのどれにも私は当てはまっていない。もちろん、バーホーベンの出る幕もない。

*1:余談ですが、ウエディが最初「職業はドロボウ」と自己紹介を始めたときには僕は思わず「デスノも終わったな・・・」とつぶやきました(笑)。その後の復活は見ての通りですけどね・・・

*2:ザ・ワールド・イズ・マイン」第6巻56話、「共犯願望(事件と添い寝する者たち)」。他にもWIMにおいて大衆批判ととれそうな描写は数多く為されているが、ここでは割愛する

*3:月のそれではない。為念

*4:というか「DEATH NOTE」は同人業界では普通に人気らしいし。主に女性向だが(笑)

*5:ここまでずっと「作者」という呼称を使ってきたのは、作品が両氏の共同作業によって作られているものである以上、原作者作画者どちらの呼称を用いたとしても議論がアンフェアなものになってしまうと考えたためです。為念

*6:蛇足だが、「対象を非人間として捉えて物質化する」という「DEATH NOTE」の反人間主義原理は、そのままオタクの「萌え」にも適用可能なのではないかとちょっと思うのだが、これを論じるとウンコが飛んできそうなのでやめておく

*7:大衆へのアイロニーは大衆が「皮肉られている」事に気付かないことこそ成立するものだが、デスノートコラの作者たちや、2ちゃんねるの一部の人々は(「嘘を嘘と見抜く能力」の高さ故か)とっくに本作の正体に気付いてしまっているように見える。ヨツバ編のグダグダで本作の文学性の無さが浮き彫りになった事も、一部のカンの良い人々に「覚醒」を促すにはピッタリだったように思う